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『往復書簡 限界から始まる』上野千鶴子・鈴木涼美

 あなたの倍近く、長く生きてきたわたしは、上から目線と言われても、あえて言いましょう、ご自分の傷に向きあいなさい。痛いものは痛い、とおっしゃい。ひとの尊厳はそこから始まります。—58頁

 女性学、ジェンダー研究者である上野さんと、作家であり過去にキャバクラ勤務やAV出演の経歴を持つ鈴木さんが、女、男、性愛、恋愛、結婚、仕事など幅広いテーマについて往復書簡形式で語り合う一冊。

 自分のすぐ目の前に相手がいる訳ではない状態で、特定の相手に向けて書く書簡形式だからこそ、話を一般化して終始することができず個人の過去や胸の内を開陳せざるを得なくなる、というか自然とそうなってしまう様子が時に優しく、時に厳しくて、すごく読みごたえがあった。鈴木さんの書いていることがまさに自分が日頃感じていることの言語化されたものであることが多くて、それに対して上野さんが鈴木さんの、そして私の自己矛盾を解きほぐしてくれるような本だったので、消費カロリーは高めだった。

 

 以下、自分の話しかないメモ書き。

 

 まず最初に、週刊誌によって過去のAV出演歴が公のものとなってしまったうえで作家として活動するにあたって、自分が性的に搾取された「被害者」として世間から見られることに抵抗を感じてしまうという鈴木さんからの投げかけから始まる。搾取されていたとしてもそこで戦う武器だって身に付けてきたし、実際自身のエロス資本を使って得た旨味だってあったのだから、一方的に被害者的立場を押し付けられるのは違うと思っていたが、そうしたスタンスが他の女性たちの運動に水を差してはいないか、という問いにぶつかり、作家としての一つの「限界」を感じ始めているという。

 

 私にとってエロス資本は、小学5年生の頃に他人(の大人の男)から端的に言うと「あなたのことを女として見ていますよ」と評価されたことで、突然に、自分の意思に関係なく持たされたものという感覚がある。その強制性と、与り知らぬところで他者から勝手に評価されることによってその資本力の大小が決められること、そこに自己決定を挟む余地はなさそうなことが怖くて不快だったのだけど、それ以上にまだ子どもだと思っていた自分がそんな資本を持ってしまったらしいことに対する自己嫌悪の方が大きくて、誰にも何も言えなかった。

だけどいつの間にかそうしたことにも慣れた、というか不躾に評価し削り取ろうとしてくる人がいるということに対して、もう諦めたと言った方が近い。そして時にはそうした人で己の承認欲求を満たしたことがないとも言えなくなった。そんな自分が一方的に被害者面はできない、したくない、する権利がないのではないか、と思う気持ちがあって、鈴木さんの書いていることはよく分かるなぁと思う。

 

 しかし上野さんはまず、そんなエロス資本はそもそも「資本」じゃねぇよと一刀両断する。評価基準はもっぱら他人の手にあってコントロール不可の状態にあって、資本の帰属先である自分が所有主体であるかどうかも疑わしいような資本は、資本とは言わない、と。そしてそうした状況に陥っている自分を被害者だと認識できないのはウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)である、と指摘する。

よく向き合ってみれば確かに、「どうせ減るもんじゃなし」とよく言われるけど実際は何かが減っていっている自覚はあるのに、それを見ないフリしてサバイブしている(つもりの)自分という自分像を持つことで自尊心を保っているところがあって、傷ついたことを自覚しきってしまうとそのアイデンティティが崩れてしまう怖さはあるなと思う。だからこそ上野さんは被害者を名乗ることは強さの証だと言っており、一理はあるなと思った。

 

 こうした話から始まり、上野さんが鈴木さんの抱える「限界」の細部を解きほぐしていきながら、話は展開していく。

 中でも「恋愛とセックス」の章で、鈴木さんが自身の夜職などの経験から、自分も相手に見下されているのだろうということを自覚しつつ、自分も相手を滑稽だと馬鹿にしている関係性から、今になっても抜け出せていない、という話をしており、あまりに共感してしまって苦しくなった。

 

 ろくでもない恋愛(とも呼べないもの)ばかりの自分の過去を振り返っても、「自分はこの人に都合の良い女だと舐められているに違いない」と思っていたけど、その一方で「あらゆるリスクを考えるよりも目先の欲に目が眩み、誰彼構わず手を出す馬鹿男。目の前の相手にそう思われているとも知らずに一人鼻息荒くして恥ずかしくないの?なんて滑稽なんだろう」と相手の男を見下しきることで、自分のメンタルを保っているつもりでいたところがある。お互いに馬鹿にしあうことで保たれている(ように見える)関係性の不毛なこと。

 もうそろそろこんなこともやめなきゃいけないと思っていたところに、幸か不幸かコロナが流行った。元々「お前みたいなモンが俺に手を出されるとでも思っているのか?思い上がるな」と思われるのではないかと思うと誘われても断れなかったところ、コロナで断る口実ができた。それ以上に、そうした男性にとって私と会うことは不要不急だった。

 それに、そのくらい相手に雑に扱われるのが自分にとって分相応だと思っていたのもある。だから、ちゃんとした人、他に女性の影はなく、日の昇っているうちから一緒に外で遊んでくれたり、他愛もない長話ができたり、イベント当日を一緒に過ごそうと誘ってきたり、あらゆる順序をすっ飛ばしてなし崩しに性的関係に持ち込もうとしたりしない人(恋愛における幸せの閾値が低すぎる)がたまに現れてくれても、そんな風に扱われることに対して身に覚えがなくて気持ち悪くなった。それに、そんな男もいつかは過去の馬鹿男たちと同じように欲むきだしでやってくるのだろうかと思うと気が滅入った。それだったら、相手に舐められ私も見くびり返す関係性を結んでいた方が楽なのだった。結局は自分と相手、同じ穴の狢だったのである。

 

 鈴木さんは本書で、上野さんとの対話を通して多くの男性に対して侮蔑的な気持ちを持っていたこと、男性の根底にある欲望が変わることはないと絶望視して、そうではない男性を冒涜していたことを反省した、と書いている。

 たかがセックス、この程度の恋愛……と思うひとには、それだけの報酬しか手に入りません。ひとには求めたものしか手に入らないのです。—85頁

ひとの善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。—261頁

 上野さんのこうした言葉は核心をついているからこそ耳が痛い。見くびった相手からは見くびられて終わりである。だから私も鈴木さんと同じように、そうではない男性をも軽蔑し冒涜し遠ざけてきたことを反省しなくてはいけない。このままでは一生限界の淵に立ち続けているだけで、何も始まらなければ何も生まれないんだろうなと思う。

そのためには、まずは傷ついていないフリをするのをやめて「痛い」と言うことから始めなくてはいけない。男性を見下すことで保っているつもりの尊厳も、上野さんから言わせるとそんなものは尊厳ではないのだ。

 

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