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『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌いだよ」—71頁

 手作りの料理、お菓子をしょっちゅう作るか弱い芦川、それを理解できず疎ましくさえ思いながら彼女と付き合っている二谷、か弱い芦川の仕事を肩代わりさせられているがゆえに彼女のことが嫌いな押尾の人間関係を描いた職場小説。

私は二谷にシンパシーを感じながら読んだ。おいしいものがどうしても食べたいと思わないからおいしいごはん屋さんを調べたりしないし、お腹が膨らめばそれで良いからコンビニ食で良いし、そもそも日に3回も食事をするのは面倒だからできるだけまとめて一気に食べるのだけど、こういう食への姿勢を咎められると困るし、咎められなくとも芦川さんみたいな人がそばにいて「ちゃんと食事しなきゃ」と言っているのを見ると居心地が悪い。

二谷は(自分もだけど)、なんでこんなに居心地が悪いんだろうな。食事という人間の基本みたいな行為を蔑ろにすることに対する罪悪感がどこかにあるのか、あるいはそれを楽しめない自分の人間性が貧しいと思っているのか。後者は自分にとって少し心当たりがあって、食に関心を払えないところは直らないし直せないけど、欠点である、という自覚があり、でもその自覚は内から湧いてきたものなのか、芦川さんみたいな人の存在から勝手に圧を感じてそう思ってしまっているのかがよく分からない。

そもそもタイトルの『おいしいごはんが食べられますように』って、誰の言葉なんだろう。たぶん二谷は実生活でそんなことは思ってないでしょう。芦川さんが唱える、二谷にとって呪いのような言葉なのか、あるいは二谷が本当の本当はそう思えたら良いなという潜在的な願望なのか、それとも食が絡む人間関係の歪みを越えてみんなでおいしいご飯が食べられたら良いのに、というこの物語を包括する願いなのか、なんなんだろう。

 

 高瀬さんの作品を読むのは二作目だったけど、淡々とした日常的な描写の中に急に人の悪意や醜いところがビビッドに表れるところ、グロテスクで好きだなと思う。

あと、押尾さんとは仲良くなれそうにないけど嫌いではないなと思いながら読んだ。

押尾さんは手に持っていたビニール袋をくしゃくしゃにまるめ、「大丈夫でした。吐きもしなかった」と言った。—135頁

「吐かなかった」じゃなくて、吐くこと「も」しないのが押尾さんなんだよな。吐ける人だったら違うルートがあったと思うけど、吐きもしない彼女はそれを嫌だと思うことはあれど変えないだろうし、だからこそ二谷にとって芦川さん以上にくだけた話し方のできる相手になったのだろう(けど付き合う相手にはならない、というのもまた分かる)。芦川さんと違って配慮されない自分に皺寄せが来るのは嫌なのだけど、一方でその皺寄せ分をあえて頑張らない選択肢を取る自分のことを自分で良しと思えるかというと、またそれも少し違うのだと思う。真面目だからそういう風にしか生きられない自分、というものを認めたうえで、最後の最後に上司に、職場に意趣返しする押尾さんのことが、私も好きだった。

というのも含めて、物語のラストは、私にとってはある意味ハッピーエンドというか、全員にとってこれで良いのでは、と思ったラストだった。私は芦川さんのことも好きだ。

 

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