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本やアイドルが主成分

他者を消費するということ 『持続可能な魂の利用』松田青子

魂は減る。敬子がそう気づいたのはいつの頃だったか。

魂は疲れるし、魂は減る。

魂は永遠にチャージされているものじゃない。理不尽なことや、うまくいかないことがあるたびに、魂は減る。魂は生きていると減る。だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはいけない。—113頁 

持続可能な魂の利用 (単行本)

持続可能な魂の利用 (単行本)

  • 作者:松田 青子
  • 発売日: 2020/05/19
  • メディア: 単行本
 

  決して自分を凌駕しない存在としての女性を消費し続ける「おじさん」へのレジスタンス小説。著者の怒りが炸裂しており、エッセイのようにも読める。性別を問わず、確かにあの時他人に不躾に搾取されたという記憶のある人が読むと、この本はフィクションとはいえ自分の物語だと受け取るのではないかと思う。

 だからか、以下、本の感想というよりは、この本にまつわることについて普段自分が思っていることなど、いつも以上に主観全開の感想になっている。

 

  この本の主人公は勤め先でセクハラを訴えるも自らが退社へ追い込まれた敬子。そんな敬子がふとした瞬間に目にし、のめり込んでいく女性アイドルグループは、実在する某笑わないアイドルをモデルにしていることが明白に描かれている。

 

 私はハロープロジェクトという女性アイドルを推す女性ファンだが、彼女たちのことが好きな理由の一つに、「パフォーマンス時にあまり制服を着ない」ということがある。過去のMVで制服をモチーフにした衣装を着ていたこともあるので皆無というわけではないが、20年以上のハロプロの歴史の中で、そう多くはないと思う。学生のため私生活では制服を着ているメンバーも多数所属している彼女たちが、ステージに立つ時は普段の制服を脱ぎ捨てアイドル衣装という戦闘服を着て踊り歌う、その姿が好きなのだ。ファンに見せるのはあくまで学生ではなくプロのアイドルとしての姿であると明確に線引きがなされているようで、見ていてとても安心する。

 

 日本で「制服」の持つ禍々しい意味合いは本当に大きいなと思う。電車で触ってきた「おじさん」、駅やコンビニからあとをつけてきた「おじさん」、携帯のカメラを向けて隣を併走してきた「おじさん」、写真を撮らせてくれと頼んできた「おじさん」、あの色々な「おじさん」たちは、10㎝ヒールを履いて身長180㎝近くになり、派手なアイメイクに色の濃いリップを塗った私の前にはあまり現れない。学生服やスーツを着て楚々としたメイクをしている時に現れる。完全に相手を選んでおり、とにかく御しやすそうで告発したりせず、最終的に泣き寝入りしてくれそうな女を選んでいる。

 

 自分の地位を脅かさない女だけを選んで搾取する「おじさん」の醜悪さに慣れ、各々で何らかの自衛の方法を編み出し、「おじさん」が消滅することはもはや諦めてしまった現状を打破すべく、革命を起こそうと立ち上がった敬子たちに勇気をもらうと同時に、どうしても自分を顧みて後悔する部分もあった。それはそのような「おじさん」の存在を諦めと軽蔑という気持ちを持って許してしまったことや、それだけでなく「制服」を着た自分の市場価値の高さ(自分比)を自覚して振る舞ったことがないわけではないこと、それがその時、その場面で楽して生きられる方法であったことに甘んじたこと。そのような振る舞いが明日の少女たちを「おじさん」に搾取させたのではないか。そしてそのように振る舞うことで確実に魂は減っていたのだと思う。

 

 また作中には元アイドルの女性(実在する大人数アイドルグループのことだと思われる)が、アイドル時代にある男性ファンが自分のSNSのコメント欄にリンクを載せた、自作の自分との恋愛小説を読んでしまったエピソードがあり、アイドルを性的に消費することについても色々と考えてしまった。

 相手がアイドルだろうと身近な人であろうと、例えば体のこのパーツが素敵だとか、例えば手を繋ぎたい、抱き締められたいとか、そういう風に思うことは悪いことではないと私は思うのだが、その欲求を自分発信のみの一方通行な関係性である相手に直接伝えてはいけないと思っていて、だからこそ作中でそんな小説をアイドルに直接届けたファンというのは醜悪だと思う。

 では最近であればTwitterに書くのは許されるのだろうか。相手にリプライを飛ばす形ではなく、ただただ自分のアカウントでそのような欲求を呟くというのは、どうなんだろう。そしてどこまでが許されるラインなのか。三次元の人間には生身の肉体があって、その所有者は紛れもなくその人本人で、そのことをまるで尊重していないような内容であれば嫌悪感を抱くが、そのラインの判断がかなり受け取り手に拠るので難しい。こういうことにあまりに鈍感でいるのも良くないが、考えすぎて呟きにくくなっているのも本当だ。例えばこの先、自分の好きなアイドルにananのセックス特集の仕事が来た場合、どのように呟いていいのか、ちょっと悩む気がする。

 

 他者を消費するということについて、結果的に過ってそうなってしまうことがあったとしても、決して鈍感であってはいけないのだなと思う。その瞬間にその人は性別を問わず「おじさん」になり得る。その自戒を改めて持った読書だった。

 

 連想した本

 いろいろなレジスタンス小説。

最愛の子ども (文春文庫)

最愛の子ども (文春文庫)

 

  パパ、ママ、王子という疑似家族を形成し、決して搾取されまいと自分たちの聖域を自らの手で作り出す女子高生たちの話。

 

畏れ慄いて

畏れ慄いて

 

 日本の不条理な会社システムに身を投じたアメリー・ノートンの自伝的小説。この本が書かれたのは1999年だが、敬子が退職に追いやられた会社と本書の会社、本質的にはさして変わっていないように思う。

 

 芸能人が主人公のお話。

夢を与える (河出文庫)

夢を与える (河出文庫)

  • 作者:綿矢 りさ
  • 発売日: 2012/10/05
  • メディア: 文庫
 

 夢だけが堂々と"与える"なんて高びしゃな言い方が許されてるなんて、どこかおかしい。

 芸能人というエンターテインメントを消費する一般人としてのエゴについても考える作品。