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本やアイドルが主成分

多様性を"受け入れる"側の傲慢 『正欲』朝井リョウ

【新しい価値観に対応していかないといけないですね】【本当にそうです】

"対応していかないと"。ため息が出る言い回しだ。—94頁 

正欲

正欲

 

 私の周りでやたらと「朝井リョウの『正欲』読んだ?あれ読みたいんだけど…」という会話がなされていたので、さすがに気になって読んだ。朝井リョウさんの小説は『桐島、部活やめるってよ』以来二作目なのでその作風について語れることはないのだけど、読んでいると自分のイタさを突き付けられるようでページをめくるのが怖くなるのは『桐島~』同様。まさに今、読んでよかった本だった。

 

 本書は序盤にとある事件にまつわる記事の文章があり、その事件の容疑者にどうやら何かの繋がりで関係するらしい周辺の人物たちの視点で代わる代わるに語られる作りになっている。そして語り手一人一人の章立てに「2019年5月1日まであと〇〇日」という副題のようなものがつけられている。2019年5月1日とはまさに元号が平成から令和へ変わった日であり、「令和」という時代が強く意識されている作品だと思うのだけど、では「令和」とはどういう時代なのか。それは「多様性が認められる時代・令和」である。 

 今日本では、まだ諸外国に比べれば低いかもしれないが女性議員の割合や女性管理職の割合はかつてに比べれば上昇傾向にあり、障がい者雇用は促進され、LGBTQという言葉の認知度は上がり同性パートナーシップ制度を採用する都道府県や市区町村が出てきた。コミュニティにおける多様性を認めようとする動きは加速し、それ自体はもちろん悪いことではないのだけど、その風潮に隠された人々の傲慢さやおめでたさを著者はこれでもかと突きつける。

 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる"自分と違う"にしか向けられていない言葉です。

 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

www.shinchosha.co.jp

(ここで試し読みができます。) 

 

 ずっと前から思っていたことがあって、例えば自分の恋愛対象は異性なのだけど、その性的志向が今営んでいる社会生活の中でマジョリティであることはごく偶然でしかない。本当にたまたま、偶然であって、何がマジョリティで何がマイノリティになるかは時代が変われば変わる可能性もあるから、流動的な属性だと思っている。だからこそ、もし自分の性的志向が偶然、今世の中でタブーとされているもの、嫌悪されるものだったらどうしよう。自分の好意を他人に認められることもなければ、表明することも許されなかったらどうしよう。それってものすごく辛いのではないか。
 …ということを考えることが結構あるのだけど、私のこういう態度ももしかしたら傲慢なのかもしれない。私はいつだってそうしたマイノリティに「思いを馳せる」側で、「想像する」側で、それを「尊重する」側であるということを疑いもしないある種の無邪気さが、そもそもおめでたいのである。

 

 さらに、あらゆる多様性の中で、どのマイノリティは認められる/認められないをジャッジするのもマジョリティ側、あるいは認められた側のマイノリティであるという構図もある。本書ではいわゆる「特殊性癖」を持つ人物たちが出てくるが、そうした性癖は普段「ダイバーシティ」や「平等」を志向すると声高らかに宣言する人たちにすら受け入れられず、その人たちが理解できる範囲のマイノリティに半ば無理やりに嵌め込まれる。そうすることで「多様性を尊重するワタシ」という令和的な先進性を持った人物像が完成するからだ。「多様性を認める社会」自体は素晴らしいはずなのに、それを喧伝すればするほどそこから零れ落ちるマイノリティが出てくる、という令和的生きづらさを、舌鋒鋭く書ききっている作品だと思う。

 

 ところで、本書の本筋からは少し逸れるが、特殊性癖を持つ登場人物たちがこのようなことを語るシーンがある。

 対等性と閉鎖性。夏月と話し合った結果、この世界で自分たちの望むものを楽しみ続けるとして必要な要素はその二つということになった。それを、"性的なこと"だと認識し合っている者同士で楽しむこと。周囲の人が誰もそれを"性的なこと"だと認識していないとしても、その状況で自分の"性的なこと"を解放しないこと。—277頁

 これを見て確かにそうだと思った。私が大学生の頃に短パンで講義を受けに行った時に、同じ講義を受けていた男子大学生に「授業中ずっと○○(私の名前)の脚を見ていた」から始まりそれに関する感想(?)をいくつかツイートされたことがあった。私は瞬時に気持ち悪いなと思ったのだけど、その要因は「そういった風に見られるつもりで短パンを履いていたわけではない」ことと、「それをわざわざ私の名前を出してツイッターに書き込まないでほしい」ということだと思う。本作で言うところの対等性と閉鎖性が守られていないから嫌だったのではないか。

 

 それでいうと私はアイドルが好きだけど、18歳以下の少年の水着姿や上半身裸の上に直接ジャケットを羽織る姿はあまり見たくないと思っている。それはたぶん、「僕のこの姿をどういう視点で見てもらっても大丈夫ですよ」という合意が得られていない気がするから、そしてその姿を性的な目線で見ている人も世の中にはいるだろうことに少年たちが気付いていない気がするからだと思う。ここでも対等性と閉鎖性が守られていない気がする、だから苦手に思うのではないか。

 では成人した男性アイドルがそうした格好をすることについて合意しているのか、本当は嫌だとしても拒否できる職場環境なのか、と考えだすとドツボにはまってしまうのだけど、多種多様な人たちが様々な視点で見るということを想定した上でそうした格好をしている(はずだ)、という前提があって初めて見る免罪符を与えられている気がするのだ。とはいえ、そうしたいわゆるセクシー演出も私はあまり好きではなくて、それは私が「服をかっちり着こんでいる男性の方が色っぽい」という一種の「性癖」の持ち主だからだ。

 

 ここで恥を忍んで私の性癖についてもっと書くと、私は男性の体毛が好きである。それも例えばタンクトップを着ている時に見える体毛とかではなく、Tシャツの裾から腕を上げた時にちらっと見える脇毛、何気なく腕まくりした時に見える腕毛、そういうものにぐっとくるのだけど、これはその人が想定していない、合意していない(私にとっての)セクシーである。あれだけ合意、合意と言っておいて全然合意を得ていない部分が好きなのである。アイドルのそういう場面に出くわした時も当然ぐっとくるわけで、でもそうしたことを直接相手に届けてはいけないと思っている(SNSでの直接的なリプライやファンレターなどで)。では一方通行で発信するツイッターでその旨を投稿して良いのだろうか。自分はツイッターで同級生に自分の脚について言及されて嫌だったのに、アイドルの脇毛に言及して良いのか?同級生の脇毛を見ても絶対に書き込まないけど、アイドルだったら良いのか?たまに見誤って「アイドル相手だったら何を思い、何を表明しても良い」みたいな錯覚に陥る危険があるが、「対等性」と「閉鎖性」を守らなければならない相手として一般人とアイドルに差違はないのだろうな。

 

 少し横道にそれたが、アイドルが好きな者としてそういったことも考えたりして、なかなかに疲れる読書だった。

 人が抱く欲望の中身を正しい/正しくないでジャッジできる人はきっとこの世にいないし、欲望を抱くこと自体を断罪することもできないのだと思う。それに今現在の段階でのマジョリティ/マイノリティそれぞれが抱える悩みや絶望や孤独に対して、軽い、大したことない、大袈裟だ、と決めつけることも絶対にできない。みんなが「明日死なないこと」を目指して生きるために、それぞれの立場を理解することはできなくても思考停止せずに想像することはできる。もうそれしかないではないか、と思うのは楽観的でやっぱりおめでたいだろうか。

 

(最後に少しネタバレちっくになるので文字色を変えたが、最初にあの事件を報道する記事を持ってきたことによって、読者がある種の「ミスリード」をするようにできているのではないか。今から出てくる人は「ああいう」性癖の持ち主たちで、その性癖は実際にあることは想像できるがそうした彼らは「断罪しても良い人たち」であるという大義名分を得た気になって読み進める。その読書態度のうちにも、マジョリティの傲慢さが浮き彫りになるように作られている気がして、朝井さん上手いな…と思った。)

 

連想した本

星が吸う水 (講談社文庫)

星が吸う水 (講談社文庫)

 

 性行為じゃない肉体関係を結び、「本当のセックス」をしたいと願う女性。セックスの「本当」とはいったい?『"正"欲』という造語をタイトルにした本書を読んで思い出した。

 

クラッシュ (創元SF文庫)

クラッシュ (創元SF文庫)

 

 特殊性癖が描かれているものとして真っ先に思い出すのはこれ。交通事故に性的興奮を覚える人。 人はテクノロジーとも性的に結合することができる。

 

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

 

 ある朝目が覚めたら右足の親指がペニスになっていた女子大生が、 性的奇形の人々を集めた集団フラワー・ショーに参加するようになり…という話。身体や性愛に対する凝り固まった先入観を抉られる。

 

今日もやっぱり処女でした

今日もやっぱり処女でした

  • 作者:夏石 鈴子
  • 発売日: 2008/10/08
  • メディア: 単行本
 

 『正欲』に出てくる、自身の性的魅力やそもそも性的に見られる対象であり得ることへの嫌悪感などに悩む八重子を見て、本書を思い出した。 

本人と同じように「わかる」というのは、わたしにはできない。けれど言葉が伝わって、そんな気持ちになってみる、というのはできるのだ。