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人が一線を越える時 『水たまりで息をする』高瀬隼子

 夫が風呂に入っていない。衣津実はバスタオルを見て、そのことに気付いた。昨日も一昨日もその前の日も、これがかかってなかったっけ?芝生みたいな色のタオル。—3頁

  第165回芥川賞候補作。いつもとなんら変わらない夫婦生活を送っていたはずなのに、ある日突然夫がお風呂に入らなくなった。普段通り食事もするし会話もするし仕事にも行くけど、お風呂に入らなくなった、変わったことはそれだけなのだけど、その違和感がじわじわと日常を侵食していく。

 

 読む人によって解釈がかなり変わってくるのではないかなと思う作品なので、読んだ人の感想をたくさん知りたい。自分の解釈が合っているかも全然分からないけど、私は一見幻想めいたファンタジーのような雰囲気でありながら、夫婦という特殊な関係性と社会との隔絶とを描いたすごくリアルな話だと思った。以下、ネタバレを含むので気を付けてください。

 

 まず「急にお風呂に入らなくなった」という設定や書き出しから本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』に収録されている「でぶのハッピーバースデー」を思い出した。「でぶのハッピーバースデー」に出てくる夫は耳に耳栓代わりにパチンコ玉を詰めたり、家では毛布を腰に巻いてスカートみたいにして床をひきずって歩いたりする。お風呂に入らないのと同様に、それ自体は致命的ではないけど社会一般から見ると何かが圧倒的にズレていて、その些細な違和感一つで簡単に社会からはじき出されてしまう、この危うさ。人はいつでも、ふとした拍子に社会の"あちら"側へ行けてしまうし、社会はそうした"あちら"側の人の臭いをすぐに掻き分けて、異物と判定したその時からその人のことはまるで見えていないかのようにして振る舞う。それは都会で変な人を見かけても素通りしてすぐに忘れ去るのと同じように。

 

 そうして社会からドロップアウトしてしまった夫と一緒に暮らす妻を、義母は詰る。「これは夫婦の問題なんだから」と。もともと赤の他人同士だった二人が、結婚すると夫婦という一単位として扱われるのだなと思った。進学した方が良いから進学して、就職した方が良いから就職して、結婚した方が良いから結婚して、子どもがいた方が良いから子どもを作ろうとしたけどそれはできなくて、でも二人でその先の将来も一緒にいることは想像できるから一緒にいることにしたという衣津実と夫の研志の過不足ない社会的な生活は、夫が「風呂に入らない」ただそれだけで一変し夫婦という一単位で二人ともが社会からはじき出される。

 

 話の中で衣津実が自身の子ども時代を回想する場面がいくつか差し込まれるのだけど、そこに出てくる飼っていた魚「台風ちゃん」は夫・研志の暗喩だろうと思った。台風ちゃんは衣津実が自然豊かな田舎で実家暮らしをしていたころに、雨上がりの水たまりを泳いでいたところを捕まえた魚である。大した世話もせず汚れた水槽の中で、それでもなぜか長年生き続けた台風ちゃん。大事にされなくても生きていける台風ちゃんを大学進学を機に実家を出るタイミングで川に放流した衣津実は、思いがけず涙を流す。あんなに何年も一緒に暮らした台風ちゃんがどんな姿かたちをしていたかさえ思い出せないことに気付いたからだ。

 うまく捨てられたような、捨てるのさえ大事にできなかったような、両方の気持ちがした。別にここでも生きていけるか、とすこし離れた水辺を見遣る。いつの間にかゆらゆら、沖に向かって流れ始めている。ここだって川は川だ。川には水があって、流れもするんだから、生きていける。—125頁  

 

 衣津実は研志を大事にしていないわけではない。急にお風呂に入らなくなった夫を拒絶することはないし、急いて理由を聞き出そうとすることもなく受け入れる。たとえ結婚しているが子どもはおらず共働きで適度に距離を保った夫婦生活を「おままごとみたいな生活」と揶揄されようとも、お風呂に入らないことで周囲から奇異の目で見られる夫との生活を守ろうとする。だけどそんな衣津実も葛藤する。

夫は風呂に入らない人だった。風呂くらい入らなくてもいいよと、彼女はほんとうに思うことができたのに、ほんとうにそう思っているのだと、夫に伝えることはできなかった。—135頁 

 社会から逸脱していく夫を「許したくてしんどい」(P.99)、つまりはある面では許せないのだ。当然のように結婚したら子どもを産むものだと思っている上司や義母、いつまでたっても「お嬢ちゃん」呼びで対等には扱ってくれない職場の人、父が事故死した後に自分の顔を見て「思ったよりも平気そうで良かったよ」と言ってきた友人、「こうあるべき」という押しつけと辛くても辛い顔を見せてはいけない圧力との中で、それでも夫と二人で穏やかに暮らしていければそれで良いと衣津実は思っていたのに、夫はそうではなかったのか?書類一つで家族になれて、書類一つで家族をやめることができる関係をそれでも続けようとする衣津実を一人残して研志はどこへ行くのか?どうして自分と一緒になって踏みとどまってくれないのか?ギリギリ社会に踏みとどまる衣津実と、ギリギリ踏みとどまれなかった研志との間のどうしようもない断絶が、衣津実を孤独にする。

 

 ラストの解釈は、人によってかなり分かれると思う。大雨で川が増水した後、研志の姿はない。衣津実はまた、雨上がりの水たまりに泳ぐ魚を見つける。この魚も研志の暗喩ではないかと思う。そしてその魚をお風呂に入れて、今度こそは大事に育てるのだ。姿かたちが思い出せないなんてことがないように。

 

連想した本

 身内も身内と思っている配偶者の全く知らない別人のような一面を垣間見た時の不安とグロテスクさ。結婚というのは、生物学的に人間同士だろうが本質的には「異類婚姻」と言っても過言ではないのか? 

 

 夫の浮気がバレた日を境に巨大化、異形化が止まらない妻。妻への介護は日に日に苛烈を極めるが、それでもそばを離れたくはない夫の、不思議な、でもこれが純愛なのか…?と感じる作品。