読んだもの見たもの聴いたもの

本やアイドルが主成分

画面の中にだけある現実 『静かに、ねぇ、静かに』本谷有希子

 

静かに、ねぇ、静かに (講談社文庫)

静かに、ねぇ、静かに (講談社文庫)

 

  本谷有希子さんの最新作が文庫化されたので買った。これまで本谷さんの小説は全て読んできたくらいには本谷さんの作品が好きなのだけど、何が好きかというとその圧倒的な不穏さかもしれない。何かが微妙にズレているがそのズレは登場人物たちが自覚できるほどの大きさのものではなく、でも確実に歪みは生じていて、その不穏さが加速度的に増していく感じ。

それでも初期の頃、例えば『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『生きてるだけで、愛』、『ぜつぼう』などでは最後に一縷の望みを見出すことができた気がするけど、『ぬるい毒』あたり以降ますます容赦がなくなってきているように感じる。本谷さんの近頃の作品を読んでいると、思えば最初の3歩目くらいから間違えてしまっていたがゆえに99歩目でその間違いに気が付いてももう手遅れで、もうこの先好転する希望を見出せないまま100歩目を踏み出すしかもはや選択肢がない、というような追い込まれ方をする。絶望である。

でも読み進める手が止まらない。ダメだダメだダメだと頭の中でサイレンが鳴りまくっているけれども先に進まずにはいられない本谷さんの筆致のパワフルさがどうしようもなく好きで、そんな文学ドエムがいっぱいいるだろうなと思う。

 

 本作『静かに、ねぇ、静かに』もまさに本谷節近年ver炸裂という感じの三編からなる中編集。SNS、ネットショッピング、動画投稿…インターネット世界で静かに狂乱する人間たちの小さな、だが決定的なズレが取り返しのつかない歪みを生んでいく様を、これでもかというほどに残酷に、意地悪に、かつユーモラスに描いていて堪らなくなる作品(ドエム)。

 

(★のついているものは特に好きだった作品)

・「本当の旅」 ★★

 友人同士のハネケン、づっちん、ヤマコがマレーシア・クアラルンプールへ旅行する話。三人はいわゆるアラフォーだが定職らしい定職には就いておらず結婚もしていない。でもそんな社会の制度なんてどうだっていい。自分の眼差しで見つめたものから心で感じ取ったものをカタチにするクリエイティビティこそが大切で、それを人と共有して"良い感じ"というバイブスを循環させることに意義があるのだから。

 そんな三人がクアラルンプールで見たものをとにかく写真に動画に収めまくり、"良い感じ"に編集したものをすぐにその場で共有し、それを見ては「クアラルンプール最高!旅行最高!」と確認しあい悦に浸る。とにかく映え映え映え!そしてイイネイイネイイネ!からのバイブス上がる!

 

 自分の目で見たもの、自分の肌が感じたこと、自分の口で話したことを、スマホタブレットの画面に映っているものが凌駕する世界にこの三人は生きている。都合の悪いもの、カッコ悪いものを全て編集してカットした状態でインスタグラムやLINEに残るその世界をイイネ!と肯定し合うことによりそのポジティブさはますます頑丈なものになり、ネガティブなものは排除される。

「結局、私達の一挙手一投足。言動。思考。呼吸みたいなものすべてが、共有されていくイメージを持ち続けること?」

「うん」

「意識の繋がり。私達がいいヴァイブレーションを発していけば、周りのひとすべてがそのいい感じを共有できて、それがどんどん返報されていって、もうそこにはいい感じしかないっていうか。私の、とか、誰のとかないっていうか」 —54頁 

 まさに何でもシェアのGAFAが(表向きでは)目指している世界観という感じである。とにかく"良い感じ"であることが大切なのだが、もはやこの世界の住人である三人に"良い感じ"とは自分にとってどういったものであるか、もっと言うと自分がしたいと思うことや自分が好きだと思うものは何であるかを自分で考えるのは困難になっていると思う。

ハネケンがクアラルンプールに行きたいと思ったのはイケてるインスタグラマーであるづっちんが「クアラルンプール良いよ!」と言ったからであり、どうしても特定の画角でその被写体を撮りたいのは同じ画角で撮られている映え写真をSNSで見たからであり、現地で食べたものが美味しいのはガイドブックに載っていたからである。自分の感情は、先人が自分にSNS等で共有してきた感情に最初から特定されている。もはや現実は自分の中にはなく、画面の中にだけある。

 

 私はTwitterのオタクアカウントを一つ持っており、それをリアルに周りにいる友人に教えたことは一度もない。それ以外の(広義での)SNS、古くからのmixi2ちゃんねるを始め、インスタグラム、Facebook、Tik Tokなどのアカウントを持ったことがないため友人たちは私のことを「一切SNSをしない人」だと認識しており、また確かにどちらかというとSNS弱者のタイプだと思うが、普段SNSを普通に利用している友人の話を大学時代に聞いて驚いたことがある。

その友人は、誰かと遊びに行った後に、その相手のSNSを見るのが怖いのだと言った。その相手が普段他の誰かと遊びに行った後に「今日は○○へ行って楽しかった!」などと書き込むタイプであればあるほど、自分と遊びに行った後にそれらしき投稿が無いと辛いらしい。投稿が無いことに「あぁ、私と遊んでも楽しくなかったのかな…」と思ってしまう友人は、「○○ちゃんと遊ぶとそういう不安がないし、私だけ微妙に盛れてない写真をアップされることもないし、そもそも写真も撮らないから、楽。」と褒めているのか何なのかよく分からないことを私に向かって言っていた。

その友人にとって、一緒に遊んだ相手がその時間に実際に感じた(かもしれない)「楽しい!」という感情よりも、その後に「楽しかった!」と書き込まれたSNSの投稿の方がよっぽど実感を持てる現実で、自分たちが"良い感じ"であった証拠なのだなと思った。

 

 だからハネケンたち三人の生きる世界はもはや寓話ではなく、今そこにあるものなんだろうと思う。上に書いた友人の話には驚いた私にも、例えば「よく雑誌に載っているラーメン屋さんのラーメンだから、これは美味しい」と思い込もうとするようなところだってある。ハネケンたちのイタさは大なり小なり今の時代を生きる人間のイタさだと思う。そんなハネケンたちが迎えるラスト、もう最高に最悪で、でも最強に滑稽で、私は確かに声を出して笑ってしまったのである。「世にも奇妙な物語」での実写化、すぐにでもありそう。

 

・奥さん、犬は大丈夫だよね?

 夫の職場の同僚夫婦とキャンピングカーに乗って出かける話。相手方の夫婦は自分にとって初対面であり、そんな夫婦とキャンピングカーで寝泊まりなんて地獄である。おまけに相手は犬も連れており、車内や自分のセーターは毛だらけ。相当な倹約家らしい同僚夫妻はコーヒーを容れた魔法瓶を持参しているが、渡されたコーヒーにも犬の毛が浮かんでおり、どこまでもげんなりする旅である。おまけに自分の携帯は夫に取り上げられており、暇をつぶすものもない。というか携帯を取り上げる夫って、かなりの束縛屋あるいはDVの気質…?と、途中まで主人公である妻に感情移入しながら読んでいくが、途中で風向きが微妙に変わる。

 

 主人公の妻はネットショッピング依存症であり、あまりに度が過ぎるので夫に携帯を取り上げられているのである。

「一日中、次に買うもの探しに追われてるのよ。何か欲しいものが見つかって、ああ、これで今日も買うものがあるって心からほっとしてる瞬間に、でも明日は見つからないかもしれないって、パニックになってることに気づいたの」 —130頁

 戦後75年経って高度経済成長も経た今、モノは溢れかえっていて、本当に本当に今必要、無くては生活できない、というモノの新発売はもはやそんなに無くなったという印象がある。巷に溢れる便利グッズなど、あれば確かに便利ではあるが、無くてもどうにかなるものがほとんどだと思う。買い物はもはやお金を払ってモノを手に入れることが醍醐味なのではなく、買い物をするという行為、あったら良いな~と思うモノをクリックし次々とカートへ入れていき一気に決済するという行為が醍醐味で、買い物もモノ消費からコト消費へ移行しつつあるのかもしれない。

そこで得られる精神的な満足が物理的な満足よりも重要、かつ人を虜にするというドツボにはまってしまったのが主人公の妻であるという印象を受けた。そしてそんな妻がどんどんと常軌を逸していく様を、そうなると薄々分かっていながら読むのをやめられない中編。静かな狂い方が一番怖い。

 

・でぶのハッピーバースデー ★

 収録されている三編の中で最も抽象的な話かもしれない。一緒に勤めていた会社が倒産になり同時に職を失った夫婦が、なんとかファミレスのバイトに就き、事態は好転するかに見えたが…—という話。

 

 この話は説明されないことがたくさんあって、まず夫は妻のことを「でぶ」と呼ぶがその説明は一切なければ、そのでぶがそのことに対して強く抵抗するような場面もなく、概ね受け入れている様子である。そしてその夫はでぶの非常に悪い歯並び、かなり重度な乱杭歯を二人が上手くいかない「印」だとして、いっそのこと動画でネットに配信すればどうか、と提案する。なぜ?とか、そのようなはっきりとした理由はもはやない。

あたしに用意されたものでやっていくのがどんな感じなのか、最初から壊れてたものを与えられてるってのがどんな感じなのか、わからせてやることができたらね。あたしの人生をきれいな箱の中に入れて、代わりに誰かの人生をもらえるっていうんならね。 —194頁

こんな気持ちででぶは、自分の歯並びという形をした二人の「印」を全世界に届けてもいいかもしれない、と思うようになる。

 

 昨今Youtubeなどの動画は過激であればあるほど再生回数を稼げる、というような思い込みであらぬ方向へ突っ走るYoutuberが問題になることがあるが、この夫婦はそのような社会問題に照らして語れるような二人ではない気がする。

上手く説明できないがずっと、何かが、ズレているのである。例えば夫が耳栓代わりにパチンコ玉を詰めているとか、家での夫はいつも腰に毛布をぐるぐる巻きにしてスカートみたいにして床を引きずっているとか、一つ一つはたいしたことではないが何とも言いようのないズレがあって、でも悪いことをしているわけでもないし、と人を逡巡させるタイプの違和感である。その違和感が積み重なって後戻りができなくなるわけだけど、そもそもがでぶの言うような「最初から壊れてたもの」が原因なのであればどうすればいいんだろう。その原因が「印」である乱杭歯なのか?分からないが、原因を求めたくなるのが人間の性だとは思う。

 

 どれも明確な救いはなく、目の前が暗くなるが、それにもかかわらずユーモラスな本谷さんの意地悪さと、そしてそのユーモアに笑っている自分の意地悪さに直面させられる本。そもそも『静かに(S)、ねぇ(N)、静かに(S)』のタイトルの時点でもう怖い。

 

連想した本

  国家や公安からの監視からテロや犯罪等に端を発するセキュリティ強化のための監視へと移り、GAFAなどから与えられるツールによって自らを監視させ、また相手を監視する時代へと突入した、という話。

規律に基づいた労働者としてのアイデンティティを二〇世紀型とすれば、二一世紀は消費者としてのアイデンティティが支配的となり、その特徴は誰からも見える「パフォーマンス」である。これがソーシャルメディアによって増幅されるのは驚くに当たらない。 —210頁

「パフォーマンス」が全てであり、その「パフォーマンス」がその人自身を評価する指標となり、それがハネケンたちでいうインスタにアップされる写真や動画だったりする。

 

ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)

ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)

 

  『監視文化の誕生』でも取り上げられている本。主人公メイが希望を持って入社したサークル社は、まさにGAFAが入り混じったような会社である。"完全な透明性"を標榜し、全ての情報をオープンにし、かつ共有する世界。

好意を持っている人に関するネット上の情報を集約させることのできるサービス「ラブラブ」によってメイの情報が集約され、それを大衆に晒される場面があるのだけど、それに対して晒した側から「でもこれらの情報を全世界の人が見られるネットにアップしたのは紛れもない自分自身でしょう?」というような指摘があり、そのぐうの音の出なさにゾッとする。『監視文化の誕生』の指摘通り、自分を監視させる社会。ユートピアを目指す正義感に満ち溢れた善良な人々によって作られたディストピア世界の話。

 

われら (集英社文庫)

われら (集英社文庫)

 

 「単一国」で「守護局」の監視のもと、「時間律令板」によって行動が画一化される「われら」。「われら」に名前はなくナンバーで呼ばれる人生であり、セックスも「薔薇色のクーポン券」が発券された日に決まった相手としかできない。究極の監視社会であるが、自由よりも何よりも「われら」という複数形、そこに属することのできる喜びの方が大きい世界を1920年代に書いたザミャーチン、すごい。

諸君は病気なのだ。その病名は想像力という。

これは諸君の額に黒ずんだ皺を噛み跡として残す毒虫だ。これは諸君を追い立てて絶えず彼方へと走らせる熱病だ。 —232頁

想像力を失った思考停止の状態が良しとされる監視社会。確かに楽そうだな、という甘い誘惑は、ある気がする。