毎年のように金曜ロードショーでジブリが放送されているが、私がジブリで一番大好きな『ホーホケキョとなりの山田くん』だけは頑なに放送してくれない。調べてみたら2000年にたった一度だけ放送されて以来、一度もないらしい。Wikipedia情報だけど、確かにそれ以来テレビで観た記憶が全くないので、たぶん正しい気がする。私は小学校低学年の頃にこの放送を見てドハマりし、録画していた友達のお家でその後も何回も観させてもらった。そのくらい好きで、以後いつまで経ってもテレビ放送してくれないので、自分でDVDを買って時々観ている。
確かにとなりの山田くんは森の中で謎の生物と出会ったり猫バスに乗ったりしないし、トンネルを抜けたら異世界だったりしないし、読書好きな少女がバイオリン少年と恋をしたりもしない。となりの山田くんは、一組の夫婦、その子である兄と妹、そして祖母と一匹の犬という構成でできた家族のただただ普通の日常がショートショート形式で語られ、はっきりとした起承転結もなく、たいした事件も起こらない。この「何も起こらなさ」はテレビでするには地味で、ひょっとすると退屈に感じる人もいるかもしれない。だけど、その「何も起こらなさ」こそリアルな日常であって尊いなぁとぐっとくる。別に家族円満、アットホームで家族最高!夫婦最高!みたいなトーンの話でもないけど、それがかえって沁みてきて、観終わった後は結婚願望の薄い私が「結婚して家庭を持つのも良いかもな…」と珍しく思う。
ということで今日もまたこのDVDを観たので、自分用の備忘録として好きな台詞をメモしておく。
となりの山田くんの好きなところは、毎日顔を合わす家族のことをうっとうしいなと思う瞬間がちゃんと描かれているところだ。ちゃんとうっとうしいし、ちゃんと喧嘩するし、ちゃんと呆れる。いてくれて良かったなと思う時もあるけど、家族生活をする中でそんな感謝の意を持ち続けることってたぶんあんまりなくて、たいていの時は「嫌いじゃないけど、まぁ、うん…」くらいの温度感なのではないか。
まつ子とその母しげが桜通りを歩くシーンが好き。
しげ「この桜もあと何回見られるやろか…」
まつ子「なに気の弱いことを言うてんのお母ちゃん。まだ七十やないの。」
しげ「…あと三十回くらいやろか…」
(まつ子、絶句して静かに倒れる)
この、長生きしてほしいと思っているしましてや死んでほしいなんて決して思ってないけど、まだそんなに長生きするつもりなんだ…と思ってちょっとゾッとする感じが、台詞なくともまつ子が静かに卒倒するという動作だけで伝わる。
また、たかし(まつ子の夫)がした披露宴でのスピーチも良い。同じく出席している妻まつ子から手渡されたカンニングペーパーがスーパーでの買い物メモとすり替わっているというハプニングにより、ぶっつけ本番で喋らなければいけなくなったやぶれかぶれのスピーチである。
人生諦めが肝心です。諦めこそいかなる事態に出会っても、くじけたり折れたりキレたりしないための秘訣なんです。
どんな酷い仕打ちでもそれが悪意から出たものでない限り、諦めがあれば許せます。いや、許せなければ生きていけません。
仕方がない、しゃあないというのは決して消極的なだけの言葉じゃない。これが絶対に必要なんです。家庭を楽しく元気よく営んでいくにはです。そして人生を前向きに乗りきっていくにはです。
どんな辛いことがあっても「しゃあないやないか」という一見後ろ向きのようなこの言葉を、呪文のようなこの言葉を唱えて立ち直るしかないんじゃないでしょうか。
自分以外の他人と暮らすということは「許す」ということなんだなぁと思う。今自分は一人暮らしで、自由気ままで、全て自分の思いのままのペースで生活しているけれど、他人がいればそれは多少なりとも崩れるだろう。他人との齟齬をそれが悪意でない限り「しゃあない」と諦めて許さないとやっていけないし、逆に自分も許される場面があって、それが生活なのかなぁと思う。この、許す代わりに許してくれる存在、というのがほしいなぁと、この映画を観るといつも思う。
のぼる(まつ子・たかしの息子)が
わが家が平和なのはどうしてか分かったよ。みなさんが三人ともみんな変で、どっちもどっちだからだ。
もし誰か一人でもまともだと、バランスが崩れる!
と叫んで三人(両親まつ子たかしと祖母しげ)に怒られるというシーンがあるのだけど、自分をまともだと思わず、相手もたいがいだけど自分もたいがいで、どっちもどっち。だからしゃあないと思えれば良いのだなと思う。
あ~またいつかテレビ放送してほしい。めちゃくちゃ地味だけど、最高に良いお話なので。 あと矢野顕子の主題歌『ひとりぼっちはやめた』も良い。「ひとりぼっちはやめた 楽しい気持ちを分けてあげる」そうだな~…。
もしかしたら結婚も良いのかもな…と思える作品
決して家族愛丸出しじゃないのに、なぜか読後、鑑賞後、結婚も良いかも…と思う作品。
これは割と直球。そもそもクレヨンしんちゃんの家族の描き方が好き。昭和の匂いによって子どもへ返ってしまったヒロシが自分の人生を回想するシーン、何回見ても泣きすぎて今やあの時のBGMだけで泣ける。
あとこの映画は「人間みな懐古厨」という話から掘り下げて色々話したくなるので、しんちゃん映画で一番好き。
詩人の主人公と、同じく詩を志す妻との暮らしを描いた小説。全く穏やかでもないし、幸せに満ち溢れた話でもない。誰か一人と濃密に関わり合う煩わしさ。でも一人きりでは味わえないものなんだなぁと思うと、不思議と結婚してみたくなる。
夫の浮気がバレた日を境に、巨大化、異形化が止まらない妻。そんな妻に絶望しつつ決して彼女のそばを離れず、彼女の食事や糞尿の世話など、献身する夫。壮絶な純愛。
専業主婦の主人公がある日、自分の顔が夫の顔とそっくりになっていることに気付き、次第に夫婦が混じり合っていく話。
夫婦という形の安寧と倦怠に浸りきっている日常のふとした瞬間に、配偶者の全く知らない別人のような一面を垣間見てしまった時の不安とグロテスクさ。毎日生活を共にしていても相手を完璧に分かりきるということはなく、生物学的に人間同士だろうが何だろうが、全ての結婚は本質的には「異類婚姻」と言っても過言ではないのかもしれない。
脳内で「A」という会話相手を住まわせ、いわゆるおひとりさま生活を満喫するアラサー女性の話。脳内に別人格を住まわせるという設定が自分のことすぎて悶絶した本。
「自分が根本的に人を必要としていないことがショックだったの。人と一緒にいるのは楽しい。気の合う人だったり、好きな人ならなおさら。でも私にとっての自然体は、あくまで独りで行動しているときで、なのに孤独に心は蝕まれていって。その矛盾が情けなくて」
(中略)
「そうです。根本的に必要はなくても、生活にあるとうれしい存在はたくさんあるんです。というか、私たちはそういうものばかりに取り囲まれて生きていますよ。根本的に、なんて思いつめなくていい。」—230頁
12歳から16歳の時代に一人の少女が詠った、切実さ極まる短歌集。解説は穂村弘。
私のベストは
冷蔵庫開けて食べ物探すとき
その目をだれにも見られたくない—266頁
という一首。
父と母セットで語ることなどは不可能
我が家は複雑なので—37頁
父と母見てると幸せになるのは
やさしくないと思えてきます—75頁