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『記憶のデザイン』、『積読こそが完全な読書術である』

 

記憶のデザイン (筑摩選書)

記憶のデザイン (筑摩選書)

  • 作者:貴光, 山本
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 これは記憶術のノウハウなどが書かれている本では全くなくて、まず現代人が置かれている情報環境を俯瞰し、日々膨大な情報を受信する私たちがいかにして自分の記憶を「世話」するか、情報社会とどう付き合っていくか、ということを主題にしたエッセイに近い本。本書を読む前に『積読こそが完全な読書術である』(永田希著)を読んでいたのだけど、それが本書の副読本に近かったので、この二冊を読んで思ったとりとめのないことを書く。

積読こそが完全な読書術である

積読こそが完全な読書術である

  • 作者:永田 希
  • 発売日: 2020/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 言うまでもないけど、今自分は毎日膨大な量の情報を受信している。朝新聞を読んで、仕事でたくさんの人と会話をして、スマホでヤフーニュースとツイッターのタイムラインを見て、テレビを見て、友達とLINEをして、Apple Musicで音楽を聴いて、radikoでラジオを聴いて、本を読んで、寝るという一日の中で、起きている間はほぼずっと何らかの形で情報をインプットしている状態に近い。若者の活字離れがよく言われるけど、実際は活字をほぼずっと何らかの媒体を通して読んでいる。私が10年前にスマホを持つ以前は上記の中で「スマホツイッターを見ること」、「LINEをすること」、「Apple Musicで音楽を聴くこと」は確実に日常に存在していなかった要素なので、この10年の間で情報を媒介するチャンネルが増えているし、今後の10年でまたさらに増えていくのだろうと思う。

 ただ私はどちらかというとインターネットにやや疎いところがあるので活用できていないけど、もっと活用している人ならば上記にさらにNetflixを見て、 インスタグラム、Facebook、Tik tokを見て、たくさんYoutubeを見て、Clubhouseを聴いて、などが追加され、さらに受け取っている情報は多いかもしれない。

gendai.ismedia.jp

 この記事を一理あるなと面白く読んだのだけど、ここにあるように、今はとにかく見るものが多くて、見たい知りたい聴きたい情報は全て「コンテンツ」として「消費」する対象になっている。これを『積読こそが~』では「情報の濁流」と呼んでいて、物理的に買った本を読まずに積む、ということだけではなく、ありとあらゆる情報を積んでいる環境に今私たちは置かれている、ということが書かれている。

 

 そうした情報積読環境の中で、膨大に受け取った情報を、いったいどこまで「記憶」しているのか?そもそもいつでも「検索」できる環境にあるので、「記憶」する必要はないのか?そういったことを山本さんは『記憶のデザイン』の中であくまで著者流に、他人に押し付けることはなく、丁寧に検証していく。

 

 何かを「記憶」するということについて、私は昔も今もアナログなものを通して記憶する、ということに割とこだわってきたかもしれない。例えばクラスメイトがみんな使っていた電子辞書を自分は大学にあがるまで買わなかったのだけど、それは私個人は電子辞書では調べた内容を覚えられないと思っていたからだ。私の「記憶」は例えば調べた英単語そのものの意味だけで成り立っているのではなくて、分厚い辞書のだいたいこの辺りを開いたページの右上に載っていて、前後左右にはその単語の形容詞や副詞が載っていたりもして~…みたいな、そういう「絵」で構成されている。またあまり意識はしてなかったけど、もしかしたら使い倒してぼろぼろになっているその辞書の手触りとか古くてちょっと埃っぽい匂いとか、視覚だけでない触覚や嗅覚も記憶するのに寄与していたのかもしれない。ところが電子辞書では何の単語を調べても「絵」が一緒になる、もちろん出てきた内容は違うので厳密に言うと絵も違うのだけど、(電子)辞書を開いて、単語を検索し、その意味に辿り着き、辞書を閉じるまでのプロセスにおいて、紙の辞書の方が単語ごとの違いが出やすいのではないか。たいした根拠はないのだけど自分の実感としてそれが強くあって、大人になった今でも勉強は全て紙の参考書、読む本も全て紙媒体になっている。

 

 思えばそれが私にとって自分の記憶を「世話」する方法になっていたのだなと、本書を読んで気が付いた。またインスタグラムなども「あればめちゃくちゃ見ちゃいそうだから」という理由でやっていないのだけど、それも情報の濁流から離れる時間を、アクセスできない(アカウントを持っていない)という形で半強制的に作ることで確保している、そうして自分の記憶が濁流に飲まれないように世話している、という言い方もできるかもしれない(まぁそんな大仰なことではないけど)。

 

 山本さんがおすすめする「世話」する方法の一つに挙げられていた、『積読こそが~』で提唱されている「自律的な積読環境=ビオトープを構築する」ということも、感覚としては分かるなと思った。本棚の中で本を自分なりにジャンルごとに並べ替えてみたり、関連性がある、親和性が高いと感じる作家同士を横に並べてみたりして自分なりに本棚を構築していくことは、少し大げさに言うと自分の記憶を体系化することに繋がるのかもしれない。

ほぼ毎日本屋さんへ行くのも、今流行っているものやよく議論されているテーマについて、一番中立な情報が並んでいるメディアが本屋さんだと感じるからなのだけど、それは過去の閲覧履歴や私の年齢、住んでいる場所、「私が好きだと思う人だけをフォローしている」ことが反映された、自分の考えに与しやすい情報の方が入ってきやすいインターネットやSNSから得た「記憶」を、本屋さんへ行くことによってニュートラルな状態に整えている、とも言える。…まあそんな偉そうなことじゃなくて、本が好きなだけだけど、本書に照らして考えるとそういうことだと思う。

 

 あと一つ思ったのは、記憶できる/できないを分ける要素の一つに、記憶する対象物が脳内を通ったスピードの速さ、というものがないだろうか。私は小学生までの間は本を読む以外の娯楽があまりなくて、そうした環境から本をたくさん読んでいたにもかかわらず、中学生で初めてドラマや深夜バラエティ、インターネットを覚えた時に、それまでの反動が大きかったからかそれらがあまりに鮮烈に面白くて、本をほとんど読まなくなった時期を中高六年間過ごした。それを経て大学に上がるタイミングでその六年間を振り返った時に、子どもの頃に読んだ本のことは覚えているのに、その六年間で自分が見たテレビやインターネットの内容をほとんど覚えてないことに愕然として、その反動で大学四年間ではまた本をたくさん読む生活に回帰したという経緯がある。この場合私にとって本とテレビ・インターネットとの間で何が違ったのかというと、その内容が脳内を通るスピードだったと思う。言うまでもなく本の方が遅い。文章を読んで、時には遡って読み返したり、ある文章を飲み込むのにいったん読むのをやめたり、気になるところに付箋を貼ったりしながら一冊を読み通すので、とにかく遅い。ツイッターで140字以内の投稿をばーっと目で追うスピードと比べたら死ぬほど遅い。でも、それだけ遅いからこそ私は記憶しているのではないか。

 

 『積読こそが~』でもファスト思考とスロー思考という概念を用いて、ファスト思考に偏らないために読書及び積読をするという話が出ていたが、上に書いたような経験があって本を読むことが好きな私にとっては賛同できる話である。しかし本を読まない人にとってそうするために読書以外の代替案はあるだろうか。やっぱりこの大量コンテンツ時代において読書は所要時間が他メディアと比べて長いし、自分にとって有益かどうかは読んでみないと分からないのにその答えが出るまでにその他Youtubeなどの動画と比べて時間がかかる。その嗅覚も読む場数を踏んで育つところがあるし、そもそも自分に合わなくても面白い本があるという経験も場数を踏んで得られるものであって、そうなるまでに何冊も何時間も、そして何千何万円もかける…?あらゆる観点において、本とは他メディア比でエントリーコストが高いコンテンツなのかもしれない。だから絶対に人は読書をしなければならない、とは思わない。

 

 ここまで書くと私はまぁまぁのアナログ人間かもしれないけど、アナログ礼讃をしたいわけではない。『積読こそが~』で提唱されている自律的な積読環境=ビオトープを構築するのに紙の本というアナログメディアが与しやすいという向きはあると思うけど、情報の濁流=他律的積読環境に飲み込まれないという姿勢そのものは本を読もうがネットをしようが個々人が自由に持ち得るものだろう。また山本さんが『記憶のデザイン』で提案するような、自分の記憶を世話するためのツールとして「知識OS」(インターネットに例えば自分の家みたいな建造物があるとして、そこにテキスト、動画などの様々なファイルを三次元的に自由に配置する)や、「知識アトラス」(インターネットで読んだ単語や言説に対して下線部が引いてあり、そこをクリックするとその出典やその言説に反対する説の出典が分かる)が、ネット空間で実現すれば、本など有形物の限界を超えることができる。

 

 アナログ/デジタルを問わず、情報の濁流に飲み込まれずに自分の記憶を世話することのキーは「自律性」と「体系化」にあるのかなと思った。そうすると情報は受動的に受信するものではなく、自発的に選び取るものに変わり、少なくとも濁流に飲み込まれて何が何だかさっぱり覚えていない、という私の中高六年間の状態からは逃れられるのかもしれない。それはそれで楽しかったけど。