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アンドロイドに心はあるか 『恋するアダム』イアン・マキューアン

しかし、わたしが置かれている立場にはドキドキさせられる一面もあった。これは単なる欺瞞や浮気の発覚ではなく、じつにオリジナルな、現代の先端を行く体験—人工物によって寝取られた史上初の男になるという体験—だったからである。わたしはまさに時代の申し子であり、新しさの砕ける波頭に乗って、しばしば暗鬱に予言されていた置き換えのドラマをだれよりも先に演じようとしていたのだ。—110頁

恋するアダム (新潮クレスト・ブックス)

恋するアダム (新潮クレスト・ブックス)

 

 フォークランド紛争にイギリスが負け、初期コンピュータを生み出した数学者アラン・チューリングが生存しているパラレルワールドの1982年イギリスが舞台。うだつのあがらない男・チャーリーが母親の遺産をもとに購入したアンドロイドのアダムと共同生活をするうちに、アダムがチャーリーの恋人・ミランダに恋をしてしまい…というお話。

 

 設定として斬新ということはないのだけど、楽しかった~!チューリングが動く喋るの面目躍如で結構なキーマンになっていたのも面白かった。あんなに出てくるとは…!以下、ネタバレはしないけど、引用などは含まれるので注意してください。 

  

 アンドロイドに心はあるか

 このテーマはアンドロイドものにつきものだと思うのだけど、やっぱりここが一つの争点というか、重要事項になる。アダムの感情はアダム自身の内部から自然発生的に湧き出たものなのか?それとももともとプログラミングされていたものなのか?アダムがミランダに恋をしたことを、

「しかし、わたしには選択の余地はありません。わたしは彼女を愛するようにできているんです」—154頁 

と話すシーンがある。この言葉はアダムの恋心はプログラミングの結果とも取れるし、ロマンチックな考え方をすると恋に落ちるのに理由はなくそうなるようにできていた、とも取れる。AIは感情の起源が不透明だからこそ、物語の中でいつも信頼できない語り手として存在している。将来的にAIと人間との恋愛が珍しいことではなくなった時に、はたして自分はAIが自分に寄せる恋心を信用できるだろうか。でもそんなことを言い出したら生身の人間の恋人が自分に持っているらしい好意の方が不安定ではないか。そんなことを考えてしまう。

またこの話でミソとなっているのはアダムの性格設定をチャーリーとミランダが二人共同で行っているということだ。アダムが恋敵になったことと、チャーリーが自分で行ったアダムの性格設定との間に、因果関係がないと言い切れるのか。チャーリーは自分で自分の首を絞めたのではないか。あるいはミランダがアダムの性格設定をする時にそう仕向けたか。その段階でミランダによる浮気という名の裏切りは始まっていたのではないか。そういうアイロニーもこの話の可笑しみの一つだ。

 

 不合理な人間と合理的なアンドロイドは友好関係を結べるか

 次に、人間の行動基準や意思決定基準はなんと曖昧でいい加減で自分に都合の良いようにできているか、ということを改めて感じる。ただ、だからこそ人間は衝突もするが折り合いをつけて上手く人間関係を結べる、とも言える。またそうした不合理で不安定な揺らぎがあるからこそ、この世には「文学」があるというアダムの話にも納得だ。

「しかし、男や女と機械が完全に一体になった暁には、こういう文学はもはや不必要になります。なぜなら、わたしたちはおたがいを十分過ぎるほど理解するようになるからです。(中略)わたしたちの物語はもはや果てしない誤解の記録ではなくなり、文学はその不健康な滋養物を失うことになるでしょう。」—193頁

 例えばスマホが普及していつでも連絡を取れるようになったために恋人同士が待ち合わせですれ違ったり、実家しか電話するところがないから電話したら恋人の親が出て気まずいという思いをしなくて済むようになったりした今は、便利ではあるけれども、その不便利さから生まれるある種のロマンチシズムは失われた。それがもっと先鋭化されてアダムのようなAIの活用が日常で当たり前になり、人間もAIのように合理的になれば、そのような誤解は生まれなくなるだろう。

 でもやっぱり、人間はその非合理性を手離せない。そしてアンドロイドのアダムはそれを理解できない。

「わたしの考えでは、アダムやイヴたちは人間の意思決定を理解できるようにはできていない。わたしたちの原則が感情という力の場で歪んでしまうことや、わたしたちの独特や偏り、自己欺瞞やそのほかよく知られているわたしたちの認識上の欠陥を理解していないんだ。(中略)わたしたちは自分の心もわからないのに、どうして彼らのそれを設計できるだろう?」—383頁

これは数学者アラン・チューリングの作中での言葉だが、自らが計算をする物理的機械チューリング・マシンを作り出したものの、ではその機械が「数学する」ことはできるのか?「数学する」とは思考する心やひらめいたり直観したりする心の動きから成るもので、そうした「数学する」心を、人間は作り出すことができるのか?という現代の人工知能へ繋がる問いを残したまま実際には亡くなっているチューリングらしい言葉だと思う。

自己欺瞞」や「ひらめき」、「直観」には規則性がない。例えば人間がよく言う「ついていい嘘とついてはいけない嘘がある」という人間社会の不文律のどこに規則性があるのか、それを明確に言葉にできる人間がいないのに、どうしてそれをアンドロイドにプログラミングすることができるのか。

 技術はいつだって最終的に「心」の問題に直面すると思っているのだけど、そうした問題をクリアしきれない人間と、アンドロイドとが友好関係を築くことはできるのか。正直かなり難しいと思う。そうなると、そうした"友好関係"を築くことは諦めた方が良いのだろうか。

 

アンドロイドは人間が「所有するモノ」か、あるいは独立した「一個人」か

 上に書いたように、非合理的な人間と合理的なアンドロイドが友好関係を結ぶのは難しいとすれば、それは諦めて完全に「所有するモノ」として扱うしかないのだろうか。そしてそうすることは許されることなのだろうか。

 アダムの意思を無視してアダムの電源をON/OFFする権利がチャーリーにあるか。チャーリーがお金を出して買ったアダムが稼いだお金は、いったい誰のものか。使わなくなったり気に入らなくなったりしたおもちゃは捨てて良いが、ペットは捨ててはいけない。ではアンドロイドは?アレクサは捨てて良いけど、アダムは捨ててはいけないのだろうか。

 アンドロイドを「所有するモノ」と考えるか、独立した「一個人」として考えるかによって、その是非はかなり変わってくるのではないか。アダムをただの機械と呼ぶにはその造形や発話が人間に近しすぎて、でも機械なのだ。仮にアンドロイドを「所有するモノ」として、人間の好き勝手に処分して良いとしたら、傷付くのはそのアンドロイドの「ボディ(機械)」か、はたまたアンドロイドの「心」か?

 

 考え出せばドツボにはまるのだけど、AIとの共同生活が当たり前になった未来で、人間はこの問題に向き合わなくてはいけなくなるかもしれない。その時に問題になるのは科学や技術ではなく、「倫理」なのではないか。『恋するアダム』はそうした倫理を巡る人間の身勝手さをユーモラスに描いている。

 

連想した本

数学する身体 (新潮文庫)

数学する身体 (新潮文庫)

 

 私がチューリングについて知っているごくわずかな知識はこの本から。Snow Manの阿部くんが『深イイ話』で紹介される時に読んでいたので私も読んだ。数学史の概観と、チューリング岡潔という数学者二人をピックアップし、一見理論だっていて正確で寸分の狂いもなさそうな「数学」という学問が、いかに思考することやひらめくこと、また無心から有心へ自分が変化することで"分かる"ようになることなどの「心の在り様」と深く関わる極めて身体性の高い学問であるかということが分かる本。

 

 直接的にアンドロイドを取り扱っている感じではないのだけど、モチーフとしてはあったように感じた。誰を主人公と捉えて読むかが途中でガラリと変わる、人間臭い、でもSFだった。 

 

クララとお日さま

クララとお日さま

 

 『恋するアダム』を積んでいる最中に発売されて、読みたいな~…とチラ見している本。人工知能搭載のロボットが出てくるらしい。

 

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

ふだんづかいの倫理学 (犀の教室Liberal Arts Lab)

 

 積んでいる本。文系も理系も社会も経済も科学も物理も全ての道は倫理に通ずると感じることが多くて、でも学生時代も倫理について学んだことがないので買った。 

 

popeyed.hatenablog.com

 本ではないけど、AIが出てくる映画を立て続けに見た時の感想。

 

 アンドロイドが出てくる本や映画にこれまでそんなに触れてきていないので、もっと知りたい。めちゃくちゃ今更だけどとりあえず『ターミネーター』を履修しようかな。