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"見える"ということ 『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ

失明した男は両手を眼にもっていくと、身ぶり手ぶりで言った。

なんにもない、まるで霧にまかれたか、ミルク色の海に落ちたようだ。—11頁

白の闇 (河出文庫)

白の闇 (河出文庫)

 

 ある日突然失明し、目の前がまるで「ミルク色の海」のように真っ白になる病が、爆発的に人から人へ伝染していく。国の政策により隔離された失明者と感染者(今で言う、いわゆる濃厚接触者)が過ごす精神病院で生まれる自治と、暴力による支配。

 コロナウイルスに感染した時の症状の一つに「味覚、嗅覚が鈍くなる」というものがあるが、ある日突然そんなことになるのは怖いな…と思った時に、そういえばそんな話があった気が…と思い出し、積読本から引っ張り出して来たのが本作。このタイミングであえて読む、パンデミックを扱った小説。「この状況は、まさに今現在とリンクするのでは…?」と思ってしまう箇所もあり、怖かった。

※以下、ネタバレになるかもしれない記述があります。該当箇所は念のため文字色を変えておきます。

  この物語は、目が見える人間には本当は何も"見えて"おらず、目が見えなくなって初めて本当に"見える"ようになる話だと思う。

 本書では人名を表す固有名詞は一切出てこない。自分も周りの人も失明した世界では、名前や肩書などの個人の属性なんて何の意味も持たないからだ。ただそこではいかにしてサバイブするか、それだけを考える目の見えない人間の男女、その二択である。

 そんな中で人間は自分が失明している状況に、そしていつ治るのか全く分からないという恐怖に慄き、狂っていく。目が見えなくなって初めて見える人間の本能が剥き出しになっていく。露になった本性の中には卑劣で残酷なものもたくさんあって目を覆いたくなる場面も多いが、辺り一面に糞尿が撒き散らされており体を洗い清めることもできない衛生状態で、国から与えられる食糧も十分でない環境、しかも失明していていつも通りに体を動かすことができない状態で、果たして正気を保っていられるだろうか。人間の尊厳が試されている状況で、尊厳も何もかもかなぐり捨て、ましてや他人の尊厳を奪う輩のことは許せないし擁護はしないが、ただみんな生きるのに必死で、人間をああも狂わせるこの病こそが異常、とも思う。(そしてこれは戦争についても言えるのかもしれない、と思った。)

 

 そんな苛烈な環境において、失明した医者の夫と一緒に隔離施設へ入った本作の主人公ともいえる「医者の妻」が、ただ一人本当は目が見えているがそれを偽っている、という設定が一番のミソである。隔離施設においてそれを公表した方が良いのか、もし公表したらどうなるのだろうか…と思い悩みながら、いかにも失明者を装う医者の妻の行動とその心理にハラハラする。唯一目が見える者として、生き残るためにグループを組んだメンバー全員分の目となって奮闘する医者の妻の姿は強いし、こうした有事の時でもしっかりと自治が働いて組織を運営できる人間の理性に希望を見ることもできる。雨に打たれて自らのどろどろの体を洗う場面はとても美しかった。

 

 ただ私にはどうしても、最後まで医者の妻だけが感染せず失明しない理由が読み解けなかった。教会の天井画にヒントがある気がしたが、よく分からず…。あと本作は「医者の妻」、「最初に失明した男の妻」、「サングラスの女」、とにかく「女」がキーパーソンだと思うのだが、これにも意味がある気がする。ぜひ読み巧者の感想が読みたいところ。海外文学を読む時にいつも思うが、自分にもっと世界史や宗教の知識があれば、理解が深まるのかなぁ。

 

連想した本

大地のゲーム (新潮文庫)

大地のゲーム (新潮文庫)

  • 作者:綿矢 りさ
  • 発売日: 2015/12/23
  • メディア: 文庫
 

 緊急事態で生まれる自治、といえば。巨大地震に見舞われた土地で、第二の激震に怯えながら大学構内で暮らす若者たちを率いるリーダー。

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

  異常な寒波により世界が氷に覆われ終末へ向かっていく。逃れるため争い、破滅していく人々たち。

終末ディストピア小説でもあるが、氷が迫りくる世界で「少女」を追い続ける「私」の尋常じゃない執着心も読みどころ。