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告白による解放 『悲しみを聴く石』アティーク・ラヒーミー

 

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

悲しみを聴く石 (EXLIBRIS)

 

  舞台はアフガニスタンなのか、それとも違うどこかなのか。明記はされていないが、日常的に紛争が起こっており、銃声が鳴り響く音がしたり銃を持った兵士が家に入り込んできたりすることも間々ある世界であることは分かる。

 本作は、そんな地域で戦場から傷を負って植物状態になって帰ってきた夫が横たわり続ける一室を定点観測している視点で語られている。夫を看病する妻の姿を、まるで防犯カメラを通して見ているような視点だ。そんな一室で妻は自分の胸の内を、聞いているのか聞いていないのかよく分からない、何一つ反応を示さない夫に向かって語り出す。

 これは人間の抑圧からの解放の話なのだと思った。抑圧されているのは主人公の妻やその叔母、女性だけでなく、主人公を訪ねてやってくるあの若い男の兵士も。

 女は落ち着きを取り戻す。そして、分別じみた口調で続ける。 「だから、売春婦を暴行するのは、暴行に当たらない。若い娘の処女や、女性の誇りをうばってこその暴行、それがあなたたち男の誇りなんでしょう」—93頁

 自身の手によって他人に流させた"血"を勲章、誇りにして生きる人間。それは女性の誇りを傷つけてでもセックスに及んだ時に流させた血もあれば、紛争で兵士、民間人を問わず人を殺した時の血もあるし、 相手の人格、意思、全てを無視することで流させた精神的な血もあるだろう。女が植物状態の夫に語る自身の抑圧経験は家庭内暴行、不妊など重たく、暗澹たる気持ちになるものばかりだ。でもそんな辛さをこれまでは吐露することができなかった。そんなことをしたら自分の生活が、地位が、立ち行かなくなってしまうからだ。アフガニスタン(のような地域)で女性が自立して暮らしていくことの困難さをまざまざと感じる。

「あなた、苦しくないの」女は男を再び仰向けにし、近づいて目をのぞき込む。「あなた、苦しくさえないのね。そもそも苦しんだことなんかないんだわ」女はため息をつく。「首の真後ろに弾が当たっても生きている人間なんて聞いたこともない。血も流さない、膿も出ない、痛さも、苦しみもない。奇跡だってあなたのお母さんは言ってた……そうだとしたら、とんだ迷惑な奇跡ね」女は立ち上がる。「傷を負ってさえ、苦しみからは逃げられているってわけ」—30頁 

 あれほど自分を苦しめた目の前の夫が、怪我を負っているにも関わらず苦しみを感じていない 。自分はこんなにも苦しんでいるのに。そう思いながら夫の首の後ろの傷口をぐちぐちと押す女の指にこもった憎しみはいかほどか。

 

 しかし女が、横たわり続けて何の反応も示さない夫に徐々に胸の内や過去の経験、秘密を語るようになってから、女の心境は次第に変わっていく。誰かに、何かに、思いを告白すること。そうしたところで生活は好転しなかったとしても、それだけで解放されるものがあるのだ。ましてや主人公の妻は今までそうやって告白した経験がないのだから尚更だろう。

「だってもう私はあなたの身体を自分のものにして、あなたは私の秘密を自分のものにしているのだから。あなたは私のためにここにいるの。あなたの目が見えるかどうか、私には分からないけれど、ひとつ確かなのは、あなたは私の声を聞くことができて、私の話していることもちゃんとわかっているということ。だからこそあなたは生きているのよ。そう、私のため、私の秘密を聞くために」

(中略)

「でも、心配しないで。私の秘密には終わりがないから」女の言葉はドアの向こう側で響く。「だって今、私はあなたを失いたくないもの!」—80頁 

  今まで自分を抑圧し続けた夫に対して、何もかもを告白することができること。それを機にかえって夫への愛しさを募らせていく様子は、夫へのある種の復讐のようだ。本作の原題「サンゲ・サブール」とは「忍耐の石」という意味で、その魔法の石に向かって人に言えない苦しみを打ち明けると、石はそれをじっと聞き、ある日粉々に打ち砕ける。その瞬間、人は苦しみから解放される、というペルシアの神話からとられているらしい。主人公の女にとって、今目の前にいる植物状態の夫こそが、自身の「サンゲ・サブール」なのだろう。

 

 ではそんなサンゲ・サブールが打ち砕けた瞬間、どうなるか。あっ、と一瞬、息をするのを忘れるラスト。ネタバレは厳禁の性質のものだと思うのでここには書かない。解釈は人によって分かれるだろうが、私は、その時の女の顔はとても穏やかで幸せな表情だったのではないかと想像する。何もかもからの、解放だ。ただ、女を訪ねることで希望を見出し始めていたのではないかと感じていたあの若い兵士のことを思って、どうしようもなく泣きたくなった。やはり、誰かの幸せは誰かの不幸のうえにしか成り立たないのだろうか。やるせない。

 

 連想した本

観光 (ハヤカワepi文庫)
 

  主人公の女の父親が闘鶏にのめり込み家族を犠牲にした過去を聞いて、すぐに『観光』に収録されている『闘鶏師』を思い出した。

「愛していようがいまいが、男ってものは女に選択させてくれないときがあるんだよ。あたしたちにできるのは、威厳を保ち続けることだけさ」—275頁 

 

穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

 

 自身を"家族社会"に埋没させること。家族に、地域に、同化すること。 

 

私のなかの彼女 (新潮文庫)

私のなかの彼女 (新潮文庫)

 

  女であることの呪い。男から自分より格下であるよう言外に求められ、マウンティングされる窮屈さ。それでも何とか自分の道を歩もうとする主人公。『悲しみを聴く石』に出てくる抑圧された人々も、完全に諦めきっていたわけではなかった。