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本やアイドルが主成分

『彼女たちの部屋』レティシア・コロンバニ

ソレーヌはうなずく。つまり実生活とはこういうもの—小難しい恐竜の名前に詳しくなって、綴りの間違った愛情の言葉をため込むこと。—26頁

 弁護士として昼夜問わずバリバリ働いていたのに、とあることをきっかけに鬱状態になって働けなくなり、貧困に苦しむ女性が集まる施設でボランティア活動をし始める現代女性と、1925年という女性の自由や社会進出がまだまだ認められていなかった時代に貧困から人々を救うために精力的に活動していた女性、2人の女性の時間軸を交互に行き来する物語。

 

 一番感じたのは、自分が誰かを一方的に「救える」立場であるという風に思うことはやもすると傲慢であり、そしてそんな立場になり得るなんてことはあり得ないのではないか、ということだった。

主人公が自分の社会復帰の足掛かりとして始めたボランティア活動によって、自分が役に立てる存在であることの実感を得て、少しずつ立ち直りかけていたところに、施設入居女性から

いたってなんの役にも立ってない。なんで来んの?うちがつまんなくて見物に来るの?いい眺めでしょ、他人の不幸って?気に入った?あんたのしけた生活も棄てたもんじゃないって安心する?(中略』いいことした気になって、うちに帰ってドア閉めたら忘れるんだ!あんたの高級な街に帰って、もどって来んな!役立たず!あんたなんか、いなくていい!—137頁

とぶちまけられて意気消沈するシーンがこの物語の肝だなと思う。

自分以外の誰かの境遇や立場、思いを完全に「分かる」ことなんてあり得なくて、それはせいぜい「想像して慮る」に留まるのであって、でもそれが結果的にその相手にとっての「救い」に繋がるかもしれないし、そうして通じ合うことで主人公も「救われる」のだなと思う。結局は想像がもたらす相互作用なんじゃないか。自分がいつでも相手を一方的に「救える」立場であることを自認することは良く言えば恵まれている、悪く言えば傲慢な気がして、そしてその傲慢さが入居女性にはバレていたから、あんな風に罵詈雑言を浴びせられたんじゃないかという風に私は思った。

 

 主人公は最終的に、ボランティア活動をする前までは見えないふりをしていた路上生活者の女性に対しても声をかけ、お金や食べ物を渡すようになるのだけど、この時もまた、「救う」ことの限界を感じてしまった。「救う」人を選んだ時点で、「救えない」人が生まれているんじゃないかということを考えてしまう。例えば東京の都会を歩いていてもそうだけど、路上生活を送っている人は一人じゃない中で、全員にお金を配れば良いのだろうか、お金を渡す人を選べば良いのだろうか、ではどうやって?ということを考えてしまうことを鑑みると、自分だったら主人公のようにその女性路上生活者に対して声をかけられるだろうか。そんな善人ぶって逡巡している間があれば目の前の人を助ければ良い、という考え方もできると思うのだけど、やっぱりそれにしたって「救う」ことには限界があって、だからこそ「救える」なんて思わない方が良いと感じてしまった。

 

 そのうえでやれることをやるしかないのだとすれば、それは主人公のようにボランティア活動も素晴らしいと思うし、今やっている仕事に一生懸命取り組んで税金を納めることでも良いんじゃないかなと思った(国がちゃんとそのために使ってくれればの話だけど!)。