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『「カルト」はすぐ隣に』江川紹子

 読んだ本の内容をすぐに忘れてしまうから自分のために記録しておこうとしてこのブログを書いているのに、それを何冊も何冊も溜めてしまって結局忘れているから、読んだらできるだけすぐにメモを残しておこうという試み。マメじゃないからまたすぐにしなくなる気がするけど。

 

 今日は『「カルト」はすぐ隣に オウムに引き寄せられた若者たち』(江川紹子)を読み終わった。ジュニア新書だけど入門書として大人にとってもすごく良かった。

 去年初めて霞ヶ関駅に降り立った時に、ここで地下鉄サリン事件が起こったのか…ということが一番に頭に浮かんだのだけど、当時乳幼児だった私には一切の記憶がなかった。これを機に知りたいなと思ってまずは入門書から積んでいたのだけど、最近また宗教の問題が取り上げられるようになってきたから引っ張り出して来た。

 

 実行犯になった信者たちの入信したきっかけや、出家後の心の変遷、事件を実行している時の心の機微などの記述は真に迫るものがあった。特に広瀬の入信したきっかけを読むと、全く自分とは違う人間なんだとは思えない。高校三年生の頃に家電販売店の店先で少し前に発売されたばかりの製品が安売りされているのを見たことをきっかけに、あらゆるモノの価値が気になるようになり、自分自身の人生の価値、生きる意味は何なのかという問いから離れられなくなる。そこから宗教の本をたくさん読み、宗教家の話も聞きに行ってみたりするのだけど、ここでは

「教えが正しいかどうか確かめる方法がなく、不確かな教典を信仰の柱にしている。宗教は、やはり人を袋小路に迷わせるものではないか」—107頁

と判断して、カルト的宗教にはまることを忌避し、新興宗教に対して不信感を抱くまでになっている。なのに、そこからオウム真理教へ入信し、あれよあれよと事件に関与するまでになる。その普通の生活からの地続き感が恐ろしい。こうした宗教にはまってしまう人として簡単に想像するような、お人よしとか論理的思考ができない人とか押しに弱い人とかいう人物像は解像度としては低くて、広瀬のようにむしろ論理的思考を十分に持ち合わせていた人で、だからこそ入信までのロジックが比較的明瞭に思われてしまうパターンもあるのだなと思った。そうなるともう、はまってしまうか否かは運とタイミングとしか言えないのではないか、と思うと尚更怖い。

 

 元信者の手記や証言をどこまで鵜呑みにするかは置いといたとして、あまりに「生きること」とか「生きる意味」に真摯になりすぎると、それこそ袋小路に陥ってしまうのだなと思う。そこに絶対的な解はないのにそれでもいったんの解がほしい、それによって自身の境遇や思考回路を理解するのに因果関係のありそうなロジックを具えて安心したい、という欲求に対して、絶対的っぽい解を強く断言する人が応えてくれると、救われた気持ちになるのかもしれない。

 

 あと、濃淡はあれど、幹部たちが途中、心中で松本を疑ったり、違和感を覚えたりする瞬間があったことも印象的だった。ずっと妄信的に120%信じ続けているわけではない。だけどそこで引き返せないし、引き返せないようなシステムが構築されているから怖い。

カルト宗教だけでなくあくどい商法もそうだし、周りから「あの人はやめておいた方が良いよ」と言われる人から離れられないのもそうかもしれないけど、誰かを信じることにはコストがかかっていると思う。時間的コストがかかっているし、場合によっては金銭的コストもかかっているけど、それらは本質的な問題ではなくて、一番大きいコストは「その人を信じた自分」という自尊心だなと思う。だから途中で違和感を覚えたり、こんなことをしていて良いのかな…と不安になったりしても、そこで引き返すことはそれまでの自分が間違っていたことを認めることであり、その人を信じた自分が馬鹿だったことを認めることであり、自尊心を傷つけることであって、引き返すコストは莫大なものになってしまっている。だから今の状態を続けていて良いのだというロジックを慌てて用意するし、それを用意できるように信仰対象者も仕向けてくるので、抜け出せない。これは本当にカルトだけの問題じゃないなと思う。

 

 著者がダライ・ラマ法王に対してまっとうな宗教といかがわしいカルトとの見分け方を聞いた時の回答も印象的だった。一見「自分の生きる意味」とかそういうものを自分で考えさせているように見えて、実際は考える思考を奪い取るのが、カルトなのだと思った。

「studyを許さず、learnばかりをさせるところは、気をつけなさい」—208頁