読んだもの見たもの聴いたもの

本やアイドルが主成分

『なぜ人はカルトに惹かれるのか』瓜生崇

しかし「自分たちの信じる宗教は本来は『正しい』ものであり、教えのもとに人を殺すような事件が起きるのは、その信仰や解釈が間違っているからである」という教義の無謬性を前提とする思想は、「教えが正しいのだから人を殺してもいい」という信仰と実は表裏一体の関係にある。—117頁

 自ら入信と脱会を経験し、今は脱会支援をしている著者が、人がカルトに惹かれる理由や脱会前後の感情、身近にカルト宗教の入信者がいて悩んでいる人の振る舞い方などについて書いている本。

 

 今まで数冊読んできた中でますます感じるのは、入信のきっかけは「(自分を・家族を・大切な人を)救いたい」気持ちや「正しさ」を得たいという気持ち、つまりはほとんど善意からきているということ。入信した後のグレーな勧誘なども、自分の中ではその人をより善いところへ導くための「正しい」行為だと認識している、あるいはそういうロジックを組み立てて納得しているのだろうと思う。

これはカルトを信じている、信じていないに関わらず、人間全般において、自分が信じる「正しさ」は良い場面で発揮されることも当然あるけど、悪い場面で発揮される、あるいは行き過ぎて反転することもあって、しかもそうした時の善意のパワーはすごく大きいなと思う。肌感覚的には、悪意のパワーよりも断然大きい気がする。陰謀論とかも善意だし、究極の話をすると戦争時の戦意も善意で、善意をもって人は通常時にはできないこともできるようになる可能性がある。

 

 話を本書に戻して、身近にカルト入信者がいたとして、その人が入信しているのも善意、それに対して「そんな宗教間違っているよ!絶対に脱会した方が良いよ!」と反対するのもまた善意であって、互いに自分が信じる「正しさ」はなかなか揺るがない。そもそも「正しさ」とは何なのか分からないし、絶対的な「正しさ」なんてこの世に存在しないわけで、カルトに入信した彼ら彼女らと今はまだ信じていない自分との間にはたいした差がないではないか、と思ってしまうが、それでも「境界線はある」と著者は言う。

 正義をもって正義を裁くことを問い直す行為は、いかなる正しさにも立たないということではない。それは正義とは何かという問いを放棄し、「絶対的な正義は存在しない」という「正義」を新たに作り出しているだけだ。—123頁

 何が正しいのかという視点を放棄するのではない。安易な「社会正義」に依存せず、何が正しいのかを泥まみれになって、真剣に考えなければならないということだ。—124頁

そしてオウムと私の境界線がないということではなく、その境界線の「ゆらぎ」を認識する。—124頁

この辺りは、自分と入信者は何も変わらない、で結論づけてしまいそうになるところをもう一歩先へ引きずり出してくれる部分で印象的だったので、本が付箋だらけになった。どの立場であっても自分なりの正しさを持つことは当然に良いのだけど、その正しさを疑ったりそこからブレたりするのは結局自尊心との戦いだからハードルが高い。自分の芯をブレさせる勇気を持ち得るかどうかが、カルトかどうかに関わらず、どんな場面であっても重要ということなのだなと思った。難しいことだけど。