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"書く"ことの難しさ 『文章教室』金井美恵子

 

文章教室 (河出文庫―文芸コレクション)

文章教室 (河出文庫―文芸コレクション)

 

 (前略)この小説を、ほとんど十年ぶりに読みかえして、作者である私が思ったのは、「傑作」というか「ケッサク!」という言葉でした。ですから(それほどの小説ですから)、私はこれが誰か別の作者によって書かれていて、それを初めて読む読者でありたかったと、溜息をついたほどです。

と、「文庫本のためのあとがき」で金井美恵子さんご本人がおっしゃるほどの小説(ここまで言い切る金井さん、かっこいい…!)。"文章教室"というと具体的にどう文章を書くかについて書かれた実用書のように思われるが、これは紛れもない長編小説。特徴として一文がとても長いのだけど決して冗長ではなく、慣れてくるとその文章に乗せられて加速度をつけながら読み終えた。色々な楽しみ方ができる小説であり本当に面白かったのだけど、感想を書こうとするとものすごくとっ散らかったものになりそう。

 物語は夫と大学生の娘と三人で暮らす主婦の佐藤絵真が現役作家の開講する文章教室に通うことから始まるのだけど、本作は地の文と絵真が文章教室に通いだしてから書くようになったノート「折々のおもい」からの引用文(〈〉内)、現役作家の著作や他の書籍からの引用文(《》内)とを繋ぎ合わてできている。どこかの作家が工夫を凝らして書いたはずの文章がそのまま別の作品にはめ込まれ、全く別の物語の一部になってしまうとは、最高に皮肉がきいているのではないか。「文章を書くこと」とはどういうことなのか?という投げかけでもあり、これから小説やエッセイなどを書きたい、オリジナリティーに溢れた唯一無二の文章を書きたいと思っている人を叩きのめすかのような皮肉のききっぷりに痺れた。

 

 こうした地の文、〈〉の文、《》の文に注目して読むと、解説で三浦俊彦さんがおっしゃるように、この物語を三種類の文章を用いて書いている人、つまり語り手は誰なのか?という問題にぶち当たる。三浦さんが挙げられているいくつかの解釈パターンの中では、『文章教室』自体が佐藤絵真が文章教室へ通った成果の表れ、つまり絵真が自分の「折々のおもい」を自分で引用しながら書いた自分たちに関する物語、という解釈一が私の中では一番しっくりきた。しかし一般的な主婦がカルチャー教室の一つである文章教室に通っただけでここまで完成度の高い物語が書けるのかどうか、と考えるとそれはどうだろう…と思う節もある。

 そうなると、語り手は実は金井さん本人なのかなぁ。物語中の登場人物として金井さんはいっさい出てこないけど、他人の書いた文章を引用しながらこの物語を語る第三者の語り手として、最初から最後までずっと登場していたのかもしれない、と思う。

 

 考えれば考えるほど訳が分からなくなるし、文学理論も何も知らない私に考えられることもたかがしれている…と打ちひしがれた読後だったけど、引用だとかそういったものを気にせずに風俗小説として読んでも面白い。作中で現役作家が思うこととして

(前略)何かの不在や欠如感や喪失感が人を書くことにむかわせるのに充分な動機だったかもしれないとさえ考えてしまうのだ。不在そのものではなく、何かの不在、何かあったものが、確かに持っていた様々なものを、喪失したのだという不幸な欠如感、という極めて陳腐なことを現役作家は考える。

とあるように、文章教室に通う絵真にも大きな欠如感がある。それは大学生の娘に思わず嫉妬してまうこともあるくらいに強く感じる若さ、美の衰えだったり、一見平穏な結婚生活を送る中で感じる女性性の欠乏、もう一度女として生きることへの渇望などである。そういったところから絵真がダブル不倫へ走ってしまったり、娘も娘で波乱万丈な恋愛をしたり、現役作家が奔放な若い女に振り回されてしまったりと、エンターテイメント要素がたっぷり詰まっている。なのでそこに重点を置いても、人々の思惑が交差し合う様子や人々の持つ心の空虚などに共感や苛立ちを覚えながら楽しんで読める。

 

 恋をしたり別れたり嫉妬したり…という、言ってみれば俗っぽい物語展開と、「書くこと」への挑戦が絡み合って一つの小説になっている本作は、本当に読み応えたっぷりで面白かった。目白四部作の一つなので、他の三作品も読みたい。