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本やアイドルが主成分

推しとアイデンティティ 『推し、燃ゆ』宇佐見りん

「推しは命にかかわるからね」

 生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど、調子のいいときばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。—7頁 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

  アイドル上野真幸のファンであるあかりは推しがリリースするCD、出演する番組、SNS、彼に関わる全てを隈なくチェックして推しを解釈することに血道をあげる、いわゆるアイドルオタク。ところがある日、そんな推しがファンを殴ったらしいと報道され炎上。その日からあかりの日常が少しずつ変わっていく…という話。

 

 あらすじだけで、アイドルオタクとしては身に覚えのあることすぎて読まずにはいられなかった。推しのスキャンダル、炎上。起こった出来事全てが時系列順に正しく報じられるわけではないので、その手の報道を全て鵜呑みにすることはなくとも、本人が大筋を認めた場合はそうか…と飲み込むしかない。推しも当然に人間なのでいついかなる時も正しいことだけを選べるわけではないとも思っているので*1、法に触れなければ良し、反省すべき点はこちらが求めなくたって反省しているだろう、と思う。この一件を以って推しのこれまでの仕事や発言、行動全てが嘘だったとも思わないから、こんな風に炎上するなんてプロ意識がまるでない、と思うこともない。

 

 ただ私が思うのは、こんなに炎上してしまって、私が推しなら次に表舞台に立つ時、ファンの前に立つ時が不安すぎて考えただけでお腹が痛くなるけど、推しは大丈夫だろうか。こうして炎上している今もきちんとご飯を食べて、眠れているだろうか。事務所や偉い人たちからは散々怒られているだろうから、一人だけでも推しを慰めてくれる人がいたらいいのに。そんな人がいるなら、それが恋人だって誰だっていいのに、と。

 

 そういう意味では私は自分を推しと同化させるタイプで、推しが楽しいから楽しいし推しが悲しいから悲しい。その推しの感情こそ私の"解釈"でしかないことも承知で、それでもその推しにまつわることについて推しの感情よりも自分の感情が先に出ることがあまりなくて、本作の主人公あかりとオタクスタンスに近いものがあるのかもしれない。

ハンガーから無理やり引っ張るせいで襟のかたちの崩れている紺のポロシャツをかぶる。水色のレースハンカチと藍色の縁の眼鏡を鞄につめ込み、最後に十二星座の占いを見る。推しは獅子座だから四位、ラッキーアイテムボールペンね、とペン本体より重そうな推しのラバーストラップのぶらさがったボールペンを鞄の内ポケットに差し込み、自分の星座は見ないまま出発した。興味がなかった。—44頁

 些細な描写だけど、すごく分かると思った。推しを前にして自分が消失する感じ。というか、推しを見ている時だけ自分を消失させることができるから楽で、その時間が一日の中に少しでもないととてもやっていけない、という切迫感。自分に興味がない、自分に興味を持ちたくないから、目の前で躍動する推しに思いきり没入する。そこには自分よりも何倍も面白くて魅力的な人間がいて、喜怒哀楽の表情を見せてくれる。その感情を追体験することで初めて興味のなかった自分自身の情動も動いて、生きてる、と思う。

 

 本作はアイドルオタクの話でありながら、推しを通したアイデンティティの話なのだと思う。

 寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。—9頁 

 「生きているだけで皺寄せがくる」というあかりの身体がふっと軽くなるのは推しを推している時だけなのだ。学校、バイト先、家庭で、自分の身体をそこにぴたっと当てはまる形で適応させることのできないあかりも、推しのいるコンサート会場ではきちんと歯車の一つとして存在できる 。そのジャストフィット感があかりの生きている実感で、だからこそあかりは推しのことを「自分の背骨」と表現する。

 

 推しをアイデンティティの全てにしてしまってはいけない、という言説を、コロナ禍の今だからこそ考えることがある。コロナでコンサートが軒並み中止になり、推しを観に行く機会がどっと減ってしまったことにより、頑張って働く意味、勉強する意味が見い出せない、という気持ちも分かる部分はあるけれど、私はそれについては案外平気だった。それよりもこのコンサートのために打合せ、衣装採寸、稽古、リハーサルと、膨大な時間と労力を費やしたであろう推しが残念がっているかもしれないと思うと無念だった。

 

 推しをアイデンティティにすると一口に言ってもその在り方は人によってばらばらで、あかりみたいに推しを解釈することが背骨になる人もいれば、推しを見ること、推しと接触すること、推しを分析すること、推しを通じて知り合ったファン仲間と交流することなど、人の数だけあるだろうし、どれか一つだけ、ということでもないと思う。その中で私のアイデンティティはどこにあるのかと考えると、それは推しという「概念」なのかなと思う。推しに会えなくても大丈夫、出演番組など全てを見られなくても大丈夫、でも日々の生活の中で特に疲れた時などに「ねぇ○○くん」と心の中で呼びかけることがやめられない。*2返事を求めているわけではなくて、呼びかけられればそれで良い。そうなってくるともはや推しの実体の有無も問題ではないからこそ、概念への拠りかかりに終わりがない(怖っ…)。

 

 炎上した推しの選択を受けて、そんな推しを自分の背骨にしていたあかりはいったいどうなるのか。背骨を抜かれても、どんなに無様だって立っていられる、というか立っていくしかない。推しは命にかかわるというのも本当だが、推しがいなくても死なないのも本当だから。

 

連想した本

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

  推しのいる空間(テレビや雑誌なども含む)でだけ歯車になれるのがあかりなら、コンビニで働いているときだけ歯車になれるのが『コンビニ人間』の主人公。

 

 今までに読んだことのある推し文学といえば。

popeyed.hatenablog.com

 推しに(間接的に、推しが意図していなかった形で)エンパワメントされた主人公が革命を起こす話。 

 

婚外恋愛に似たもの

婚外恋愛に似たもの

  • 作者:宮木 あや子
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  生い立ち、経済状況、家族関係、日常生活における価値観など、何もかもが違うがゆえに同じクラスメイトなら友達になっていなかったかもしれないオタク同士が、そんなものを軽く飛び越えて推しの話ならいくらでもできる不思議。オタクカルチャーへの切符は「好き」という気持ちだけで、その他は基本的にボーダーレスであってほしいと思う。

*1:そもそも「正しい」とは。明らかな不祥事の場合まぁ正しくないことが多いが、例えばアイドルが"熱愛"することを正しくないとは思わない。

*2:書いていて自分もしかして結構ヤバイかもと思った。