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本やアイドルが主成分

最近読んだ本②

 前回最近読んだ本について書いていたら思いのほか長くなったので①とタイトルをつけて②も書こうと思っていたら、結構な時間が経っていた。もはや最近読んだ本ではない。そして真に最近読んだ本がまた溜まってきている。

『生活の豊かさをどう捉えるか』A・セン 他

 この本を買った頃、ちょうど18歳以下の子どもに対して10万円を給付する時に、所得制限をいかにして設けるかという話が連日報道されている時期だった。世帯で最も高収入の人の所得を基準に960万円未満であれば給付するというモデルケースを国が発表した時に、例えば年収1,000万円+年収0円の夫婦であれば貰えないが、二人ともが年収800万円の夫婦であれば貰えるのは不公平、みたいな話が噴出していたのだけど、私はいくらの収入をもって生活が豊かであると感じるかはその人によるよな~例えば世帯年収1,600万円でも子どもが5人いたり医療費が莫大にかかる難病に罹っている家族がいたりしたら、生活に余裕があるとは思えていない可能性もあるよな~などと思っていたところ、本屋さんでこの本が目に飛び込んできた。

 この本では、生活の豊かさとは何か、経済的に良い生活を送ることか、体調が良いことか、望み通りの生活を送ることか、自由を享受できることか…といった問いに対して、経済学者や哲学者がそれぞれに論じている。共通していることは功利主義的で画一的な数値で単純に表せられるものではなく、多元的で複雑なものをそのまま複雑なものとして受け止めて喧々諤々と議論していく、という明示的な解はないままに終わるという点だった。

 その中でも「不確実性」をどう捉えるか、という経済学者のラヴィ・カンブールの章が面白かった。例えばの話、コロナで収入が激減した芸人さんと収入に影響のなかった人との間で収入差が拡大したとして、それは数ある職業の選択肢の中から芸人になりたいという夢を叶える自由を選択した結果だから、再分配して格差を埋める必要はない、という判断は、不確実性の高いことが起こる「事前」の平等を高く評価し、「事後」の不平等を低く評価していることになる。著者は「事後」を評価することを重視しているのだけど、それは「諸個人は自らの行為の帰結を十分に正しく認識することはない」からだというもので、合理的な理論とは折り合いが悪いだろうということを著者本人も書いている。確かに理屈として弱い感じもするのだけど、何人も明日何が起こるか分からないからこそ社会保障のために税金を払っているので、直感的には分かる、と思った。

 

『給料はあなたの価値なのか』ジェイク・ローゼンフェルド

 『生活の豊かさをどう捉えるか』で単純に所得金額だけで豊かさは測れないという話を読んだのだけど、それでも人は所得金額の大小で自分を含む人間のスペック(嫌な言い方だけど)を測ることに囚われがちである、ということで次に読んだ。

 給料は何で決まるのか。従業員に聞くと「その人の能力や生産性の高さが反映されているはずだ」と答えるし、経営者に聞いても「その人の実力が反映されるべきであるし、実際にそうしている」と答える人が最も多いが、実際にそうだろうか。結論は、そうではない、つまりあなたの価値と直結しているものではない、という本である。

 著者曰く、給料は「権力」(経営者と従業員の権力のバランス等)、「慣性」(初任給をベースに給料は大きく減りもしなければ増えもしない等)、「模倣」(同一業界の相場観で決まる等)、「公平性」(同期間や同職種間での給料の公平感等)に基づいて決まっているという。その中で、例えば労働組合が存在せず従業員に発言力がなければ上がりにくかったり、競業避止条項によって同一業界内で転職をしてもそう大きくは上がらなかったり、人件費を増やして利益を圧縮すると株価が下がるため株主還元を優先して上がらなかったりと、社会システムが給料上昇の阻害要因になっているため、給料が低いからといって自尊心を傷つけることはない、という主張をしている。こうした従業員にとって不公平な給料システムを正すための手法がいくつか述べられているのだけど、その一つとして年功序列型が良い、という今まさに日本が脱しようとしているものが挙げられていたので驚いた。

 

『測りすぎ』ジェリー・Z・ミュラー

 『給料はあなたの価値なのか』で公平に給料を支払うには年功序列型が良い、なぜなら個人の成果は完璧に測定することがほぼ不可能であり、特定の属性(女性やマイノリティ)へのバイアスも反映されやすいからである、という話があったので、次に読んだ。

 今、ビジネスの世界ではもちろん、それ以外の警察や学校、研究機関、医療業界、非営利組織等においても、とにかくパフォーマンス測定が重視されているという。私は営業職をしていた時期に、プロセス評価もあるとはいうものの、ベースは契約件数や金額等、数字で評価されている部分が大半で、でもそれが自分にとって分かりやすく達成感を得られて結構好きだった。だけど行き過ぎた定量的な評価は腐敗や改ざんを招くということで、まぁそれはそうか、と思う。また成果を報告することに躍起になって、その報告書を作るための人員にコストがかかって肝心の研究に割かれる時間が減るなど本末転倒なことが起きたり、重犯罪件数を減らしたいがために案件の分類を意図的に軽い犯罪として記録したりと、パフォーマンス測定へ固執することで生まれる機能不全がいろいろと述べられている。

 それは良くないことだというのは分かるのだけど、かたや例えば大学の研究費みたいに、国からの科研費、つまり税金から賄われている場合は、その税金がどのくらい国の産業に資する研究成果を生んだのか、ということは、ある程度知りたいという側面もあると思う。とはいえ研究が成果を生むのにはかなり長い時間がかかるのにその成果報告に迫られてすぐにビジネスになる研究にしか手を付けない、というのもまた良くないのだろうし、このバランスはかなり難しいなと思う。

 こういう本を読むと、自分は割と定量的な指標が合理的だから好きで、功利主義チックなんだよな…とよく思って、複雑な気持ちになる。

 

『何者』、『何様』朝井リョウ

 クイズノックが『何者』を課題図書とした読書会を開くと知って読んだ。


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 『何者』は就活を軸にした大学生の群像劇なのだけど、就活が本筋の話ではないと思う。就活を通して自分が何者かになれるか、何者であると他人に評価されるか、という自尊心や承認欲求と戦う話である。

 私にとって主人公の拓人の考察癖というか、一歩引いて他人を分析しきることができていると自分で思っている感じがとても鼻について仕方なかったのだけど、私は客観的な立場にあろうとしていることが他人にバレるのが何よりも嫌だからこそ何も考えていないように見せたい人間で、私の方がよっぽどメタ認知を拗らせている感があって自己嫌悪した。その場の人数が多ければ多いほどピエロになりたくて、実際にバカだし残念な人間なのだけど、実際以上に他人にそう思われていたくてそういう風な言動をとるところがあるから、光太郎にシンパシーを感じたのだけど、それすらも「自己肯定感が低いように見えて、実は自覚的に低く見積もった自分を見せているだけで本当はこんなもんじゃないんだ、と思っているのではないか、それは逆に自己肯定感が死ぬほど高いのではないか…!?!?」とも思ったりして、メタ認知の暴走が止まらなくなった。もっと楽に生きた方が良い。

 

 そのあと『何者』前後のオムニバス短編集である『何様』も読んだ。『何者』でいわゆる意識高い系だった理香と隆良カップルが付き合うまでを描いた「それでは二人組を作ってください」がホラー小説くらい怖い。斜に構えていたつもりが構えきれていなくて大ダメージを食らうけどそれは誰にも言えない、そんなことをしたら自尊心がもたないから、だから自尊心を保たせてくれる人としか一緒にいられない、そういう理香のいたたまれなさに、読んでいて泣きそうになる。

 

『変半身』村田沙耶香

 目の前の生き物たちは、いつでも、新しい「真実」を喜んで受け取る。それに飽きてくると、今度は次の新しい真実を受け取る。まるで、真実を食べ続ける化け物みたいに。—117頁

 子どもの頃に生まれ育った孤島で行われていた若者が生贄になる秘祭「モドリ」。大人になってから、その秘祭に関する驚きの真実を知る…という話なのだけど、不気味で不穏でものすごく気持ち悪かった(褒めている)。

だけど、私はこの話に妙なシンパシーを覚えてしまう。というのも、例えば京都の街並みや白川郷の家々みたいな、あまりに完璧で出来過ぎているように私には感じられる観光地、あまりに観光客が見たい姿である観光地に対する違和感があって、ここに住んでいるとされている人たちは観光客が一人もいなくなったら「はい、お疲れ様でした~」と言って撤収しているのではないか、あるいは国や都道府県から「観光地住民手当」みたいなものを貰っていて、その代わりにその観光地らしい暮らしを全うしているのではないか、みたいな妄想が止まらなくなるのだ(ひどい妄想なのでその地に本当に住んでいる人たちには反感を買うかもしれない)。これが「真実」ですよと言って差し出されているものの完成度が高ければ高いほど本当だと思えないのだけど*1、たぶん『トゥルーマン・ショー』の見過ぎだと思う。

 

『女が死ぬ』松田青子

 53もの掌編が収録されているショート・ショート集。

 特に好きだったのは「武器庫に眠るきみに」。子どもたちが、いずれ戦場に出向かなければならないかもしれないことも知らず、何気ない日常を健やかに過ごしている朗らかな顔が目に浮かぶ。そうした子どもたちがフィクションではなく現実に存在している、存在してしまっているのが今なんだなと思う。

 

「テクノロジーの思い出」も好き。

ぼくらはぼくらのテクノロジーを見せびらかす。自慢する。品定めする。相手のテクノロジーが羨ましくって、地団太を踏む。お互いのテクノロジーで勝負する。ドカーン、ボカーン、テクノロジーが爆発。ぼくらはテクノロジーを使って、何度も塗り替え、上書きする。勝たせて、勝たせて、勝たせて、勝たせて。ぼくらはテクノロジーにお願いする。ぼくらの人生はテクノロジーでできている。—173、174頁

これを読むと核兵器を思い浮かべずにはいられなかった。人間の英知を集めて作った核兵器が人間の理性を超えて核兵器に人生を明け渡すことを想像してしまう話だった。

*1:例えばパンダは白と黒の配置と配合のバランスが絶妙に人間にとって愛らしいように見えすぎていて、その柄は本当に自然の産物なのか…?とか、他にも数えきれないくらいの訳の分からない妄想があり、どうかしてるかもなと思う。