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"群衆"の行動様式 『群衆心理』ギュスターヴ・ル・ボン

 コロナウイルスについて色々なニュースを目にし、一喜一憂、ではなく一憂一憂という感じで気が滅入るばかりの毎日を過ごしている。もちろん疫病そのものも怖いし、景気は悪くなるし、行くはずだったライブは中止になるし、遊びに行けないし、でも在宅勤務はできないので通勤しなくてはいけないし…と落ち込もうと思えばどこまででも落ち込めるのだが、免疫力が落ちそうなのであまり嘆きを口にしないようにしている。ただ日々この疫病を機に考えさせられることがたくさんあって、それは興味深い、と言うと実際に罹ってしまわれた方々、そして亡くなられた方々がいるので誤解を招きそうで怖いのだが、素直に書くと、こういう有事の時の人間の心理、行動にとても興味があるのである。

 人生で初めて、自分の生活圏でお店からトイレットペーパーが消えた。「コロナに花崗岩が効く」として石がフリマアプリで出品されていた。5Gでコロナが拡大、という説がイギリスで流れた。どうして?なんで?信じる人間の心理、情報が拡散する過程というのはどういったものなんだろう?

 

 ということで、知りたいことが書いてありそうな本を数冊買った。まず読んだのは古典的名著とも言えるギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』

群衆心理 (講談社学術文庫)

群衆心理 (講談社学術文庫)

 

 まず、"群衆"とは何か。一般的には個人の集合であり、その国籍や職業や性別を問うものではない。ただし本書が指す心理学的な"群衆"とは、「意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられる」集団を意味している。

意識的個性の消滅、感情や観念の同一方向への転換、これは、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴であるが、多数の個人が同一場所に同時に存在せねばならぬことを必ずしも意味しない。離ればなれになっている数千の個人でも、あるときには、例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある。(26頁)

引用にある"例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動"が、今でいうコロナウイルスなのかもしれない。

 そして著者はそんな"心理的群衆の性質"を3つ挙げている。

  1. 個人を抑制する責任観念の消滅
  2. 精神的感染
  3. 被暗示性

 1についてはまさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」の感覚なのではないか。あるいはいじめ(という言葉は、私はあれを犯罪だと思っているので相応しくないと感じているが、ここではあえて使用する)もそうか。1人単独では決してできないが、単に大勢でいる、それだけで気が大きくなる。ある種の無敵感覚を覚える。その結果1人なら理性が働いてできないようなことも、いともあっさりとしてしまう。 2については本書でもあまり詳しく書かれていないが、その通りだろうと思う。今回のコロナの件について言うと、SNSの発達によってよりその感染力が強まっている気がする。また3の被暗示性の結果が2の精神的感染とも言える。この被暗示性については、以下の引用が印象的だった。

群衆は、どんなに不偏不党と想像されるものであっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるために、暗示にはかかりやすいのである。一度暗示が与えられると、それは、感染によって、ただちにあらゆる頭脳にきざきこまれて、即座に感情の転換を起こすのである。暗示を与えられた者にあっては、固定観念が行為に変化しがちである。

(中略)

すべては、刺戟の性質如何によるのであって、単独の個人の場合のように、暗示された行為と、その実現に反対する理性作用全体とのあいだに存する関係如何には、もはやよらなくなるであろう。(46頁)

 引用文に照らして考えると、みんながコロナウイルスに罹りたくない、コロナ影響下であっても従来の生活を送りたい、ということを期待して注意の集中状態にあると言えるのか。それゆえにコロナに罹らないで済む情報、コロナに影響されない生活が送れる方法についての情報=暗示に簡単にかかってしまう。通常時ならその因果関係や尤もらしさを吟味するかもしれない個人であっても、この状況下で群衆の一員となった個人によっては吟味されない。しかもSNS等によってすごいスピードでその情報が拡散されていく。そしてお店に行けば実際にトイレットペーパーが品薄になっている。品薄の様子がニュースでも流れている。本当はデマかもしれない、と心のどこかでは思っていたとしても、実際に無いことを目の当たりにすると、思わず買い溜めしてしまう。この状況下だから、思わず理性よりも本能が勝り、不合理な行動を起こしてしまうのだろうか。

 

 また、コロナに関するニュースやSNSへの書き込みで気になるのが、世代間論争のようなものである。「症状があるのにジムへ行った老人」、「外出自粛と呼びかけられているのにも関わらず都会を出歩く若者」 などがニュースで取り上げられる度に、「若者は日中働いているのに、リタイアした老人が遊んだせいで…」や「危機管理能力が足りない、これだから若者は…」のようなネット投稿を目にする。個人的には世代を問わず不用意な人はいるし、世代を問わず感染する人はする、という感覚なので、もうもはやこんな論争は不毛なのでは…と思うのだが、本書に印象的な文章があったので引用する。

微妙な差違を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。感情は、暗示と感染とによって非常に早く伝播し、それが一般の賛成を得ると、著しくその力を増大するのであるが、群衆における感情の誇張は、この事実によっていよいよ強められる。

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それが、たちまち異論の余地のない明白な事実に化してしまうのである。(60頁) 

相互のあいだに見かけだけの関係しか有しない、相違なる事象を結合させること、特殊な場合をただちに一般化すること、これが、集団の行う論理の特徴である。(81頁)

 若者批判を例にとると、「外出自粛要請のある中、都会へ遊びに繰り出した若者(もいる)」の"も、いる"の部分が見過ごされる。そしてメディアで「外出する若者」と断定されると、あらゆる事情や例外を想像することなく明白な事実として受け取られる。個別具体的な話をすべからく主語を大きくして一般化することが、本書で言うところの集団の行う論理なのではないか。

 あと本書の内容からは逸れるが、"我慢をしている自分よりも我慢をしていない人が得をするのは許せない"という心理も、大きく寄与しているのだろうとも思う。例えば自分が自粛をしているにも関わらずその間海外旅行へ行き帰国した人が得をする、つまりコロナに罹らないというのは許せない、なので罹ったと分かれば徹底的にバッシングする。それは自粛をしている自分が損したことにならないようにするための、当然の報いである、というような心理があるのではないか。これはまた別に、心理学か何かの本を読んでみたい。

 

 まとめると、コロナウイルスという未知の疫病に対して誰しもが恐怖を感じ、絶対に罹りたくないという気持ちが当然に強まる状況の中、その気持ちを同じくする個人の集まり、すなわち群衆は本来の理性を失い、暗示にかかりやすくなり、そして気持ちは誇張され極端へ走る。そんな群衆心理が今般のデマ拡散や買い占め、SNS等での炎上に繋がった、ということ?正解不正解はともかくとして、そんな風に思った。

 

 本書では他にも、群衆の精神を支配しているものは自由への要求ではなく屈従への要求である、群衆を動かすに必要な"威厳"について、など、面白いことがたくさん書かれている。古典でありながら言葉も平易、かつ章立てがシンプルで読みやすかった。

 

連想した本

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

 

 未読。

 

  人の悪口や自己顕示欲を満たしたいがためのホラ話など悪意のある噂が拡散する反面、役に立つ情報を他人にも教えてあげたいという善意がくる噂もある。今回のコロナについても、デマの発信源はもしかしたら善意だったのかもしれない。

 

後記

 4月6日の日経新聞朝刊の第一面、見出しが「善意の投稿 人類翻弄」だった。記事によると、2月27日に行われた「トイレットペーパーが輸入品のため品切れになる」とのデマ投稿自体のリツイートは1件のみでほとんど拡散しておらず、その後そのデマを否定する複数の投稿(ex.「落ち着いて」「大半が国産だから」)が翌28日までの2日間で累計32万リツイートだった、とのこと。デマ退治のための投稿があまりに拡散した結果、「そんなに話題になるなら実際に品薄になるかも…」と人間に思わせた皮肉。記事の確からしさは分からないが、関心を持って読んだ。